菅首相は今回の震災と原発事故を「戦後以来の最大の危機」と発言しました。今や身近になってしまった「被爆」という言葉に広島・長崎のことを思ったり、津波で壊滅した街を「空襲後の焼け野原」と例えるひともいたり、現在の「いつ何時抗えないもの(余震や放射能)に襲われるかわからない」という不安は空襲を恐れるそれではなかったか想像したり、何かと戦争と重なります。あとは外出する家族を玄関先で見送った後「無事に帰宅するだろうか」という思いが一瞬よぎったとき、私ですらこんななら、福島第一原発の現場労働者や自衛隊員、消防隊員などを家族に持つ方々にとっては、それこそ夫の出勤は出兵を見送る気持ちだろうなと思ったり(実際戦争を体験した方々に言わせれば、比べ物にならない話で、失礼にあたるかもしれませんが)。メンタルなことではなく、被災地の("マス"メディアでは報道されない部分で)「子どもが餓死寸前」「死体があふれて葬れない」というような現場は、きっと戦場と同じ凄まじさだと思います。もちろん戦時中と同じではないことの方が多いし、比べたりするのは不毛かもしれませんが、ひとつ、とても大きく異なることとして触れたいのは「情報量」です。国の検閲などが入って厳しく情報がコントロールされ、言論の自由もなかった時代と比べて、今は自分で情報を選択(発信も)できる時代だということです。
2011/04/02
ほんとの情報ってなんだっけ 1
インターネットの情報過多で不安になったり、デマメールが来たり、テレビや雑誌の見出しに煽られたり、どれを信じていいかわからなくなるデメリットもありますが、そこはあえて戦時中と比較して言うと贅沢な文句かもしれません。日本史を置いておいて今現在の他の国と比べたとしても、日本はこれでも自由な方に入ると思います。せっかく選び放題なのだから、今のようなときこそ特に、自分で情報を集めて選び、考えて行動することが求められる気がします。そのためには情報発信者(マスメディアでも団体でも個人でも)がどういうスタンスや基本的考え方を持つ人たちかを、多少なりとも理解してから読み聞きをし、鵜呑みにせず、論調のベースを鑑みながら「おそらくこの辺がホントなのだろうな」という落としどころを自分で見つけなければいけません。政府に対しても同じです。批判的になったり斜に構えて冷笑的になるのとも違います。そりゃ面倒。メディアが正直で中立公正なら(そうしていると本人たちは思っているのかもしれないけど)そんな面倒なことしなくていいし、惑わされる人々も少なくなるんだろうけど、メディアも営利企業なのでまったく中立公正なわけにはいかないのだと思います。メディアリテラシーは日本人は低そうに見えるけれど、具体的行動に表れていないだけで、結構高いのではないかと思っています(そう信じたい)。
結果、とても大きな話になりますが「自分の信じるところがどこにあるか」「何が大切か」ということも関わってくるし、これまで人生の様々な経験が、情報の消化の仕方の判断基準になるのかもしれません。感覚的なものもあると思います。先日、テレビの原発関連ニュースを日中ザッピングしていた友人(主婦)が「NHKとTBS の論説委員はなかなか正しいと思うね」と評価をくだしていました(同意。特に NHK の水野解説委員は「NHK の良心」と密かに人気沸騰中)。比べてます。ひとつの情報源や表面的な情報に左右されて動揺したり、簡単に何かをあきらめてしまうのは残念なことです。ぶっちゃけ何でも自分で体験したことより推測や他人の判断(情報)に基づいて信じている事柄の方が多いわけなので、何でもホントのホントのところはわからない。だからこそ、自分の中の経験値や知識量に応じて多少それが流動的になってもいいから「オリジナルの判断基準」を常に持つ。それを軸に答えを求めようとする姿勢は「ホントのところはわからない」世の中を生き抜くために、とても大切だと感じています。特に原発の問題のように賛否のある事柄は、ちょっと注視しないとホントのところが見えにくいです。次以降の投稿で今回(今)のプレイヤーたちを出して私見を書いてみます。
投稿者
cabin8design
時刻:
2:01
ラベル: energy issue 3.11, media
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