自分はお世話になったことはないけれど、空港で "lost and found" を見かけるたびに、英語ってシンプルだなと頷いてしまう。「遺失物取扱所」と言われるよりなんだか lost and found だと、なくしちゃったけど見つかる感じもしませんか。

人間は忘却の生き物です。忘れないと新しいことを覚えられないという許容量の問題だけでなく、意図して忘れ去りたいことも多い。忘れたくない、忘れてはいけないこともたくさんある。ここは忘れっぽい自身の日々の「公共備忘録」です。また、立ち寄ってくれた方たちがここで何か発見をして、喜んだり怒ったり哀しんだり笑ったりしてもらえれば幸いです。

《 NOTICE 》ちなみに今はもっぱら脱原発ブログとして展開中であります

home

2012/12/06

VOTE

とにかく選挙へ。

来る 12月16日の選挙は、日本の明暗を分ける選挙です。
子どもたちの、みらいを決める選挙です。
原発が爆発して放射能が国中に大拡散したのだから、いまさら脱原発が「選挙の争点」になるかならないかで揉めるとも思っていなかった。選挙なんてしなくても、脱原発が決まることは当然だと思っていた。が、事故がなかった他のいくつもの国が、福島を教訓に脱原発へ舵を切る中で、日本は大飯原発を再稼働をし、原発をなくすかなくさないかまだ定まらない。そのうえ、原発をこの期に及んで推進し、改憲をして戦争のできる国にする、徴兵もすればいいという公約を掲げる党も出てきました。もう意味わかりません。

今、日本にたまたま帰国しているのですが、この選挙のこともあり、家のこともあり、バタバタしすぎて何もまとめられることができません。のちほど。

だけどこれだけ手短かに。
とにかく、とにかく、選挙へ。
これ以上、この国になめられてどうする。
わたしたちに、ありがたくも与えられた「投票」という権利で、自分たちの手で、自分の代理となる「代議士」を選び、国のゆくえを決めましょう。
それが民主主義だ。
決められるんだよ、わたしたちが。


2012/10/05

倫理的なエネルギー


「原発は倫理的なエネルギーではない」

少し前のことですが、ドイツの「安全なエネルギー供給に関する倫理委員会」(倫理委員会)が、脱原発を結論づけるために議論し、出した公式な発言です。委員には原子力の専門家はひとりも入っておらず、牧師や哲学者、社会学者、金融関係者、労組の代表や消費者団体、環境団体のメンバーなどから構成され、公開討論会などを通して「国民的議論」として、政府の決定した脱原発について、意見をまとめました。

ここで出された結果を尊重したメルケル首相も褒めたいですが、こうしたバランスの取れたオープンな意見聴取の形をとったドイツ、社会が成熟しているし、国民主権なんだなと思います。原発のことを(事故が起きる前も後も)偏った専門家に任せている日本と大違いですね。

当初、委員の考えはそれぞれの立場からまちまちであったのが、丁寧な議論を積み重ねるうちに深められ、やがて生きる根源的なもの、倫理的な考えに至ったそうです。そこには電力源シナリオやコストや GDP の話などはまったく出てきません。 ただ:
1. 原発はひとたび事故を起こせば、必ず甚大なリスクを引き起こす
2. 事故の影響は国境をまたぎ、地球規模のリスクとなる
3. 事故はその時だけでなく次世代へ計り知れないリスクと禍根を残す
という事実から、「こんなもの、いらないよね」となっただけ。

ご興味のある方は ☞「国民的議論をいかに進めていくか 〜ドイツ倫理委員会の実状と脱原発へのプロセス(ミランダ・シュラーズ)」。

原発はエネルギー問題ではなく、倫理の問題(電力どうこうじゃなくて、どう転んでもやってはいけないこと)だということは、京大の小出裕章先生もずっと前から仰っていました。著書『原発のない世界へ』の中でも;
「私が原発を廃絶させたいと願うのは、原子力が危険だからという前に、原子力が始め(ウラン採掘)から終わり(廃棄物処理)まで、いわれのない犠牲をしわ寄せするからです。私は今後とも原子力に抵抗します。一人一人の読者の周りにもまた、いわれのない犠牲を強いる差別が満ちているはずです。その差別に抵抗し、差別のない世界ができたとき、原子力もまた廃絶されているはずです。」(2007年)
「原発がなくなれば、それで望むような社会ができるわけではない。原発を廃絶させることは、望ましい社会を築いていくための1つの課題であり、基本的な目標を忘れずに、1つ1つの選択をしたい。」(2000年)
と述べられています。

小出先生は「たかが電気(をつくるだけのもの)に、犠牲にするものが多すぎる」という主旨のこともどこかで言われていました。だから、わたし(小出先生)は「脱」原発なのではなく、「反」原発なのだと。

原子力発電の工程の中や、被ばく労働者、原発城下町の地方と都市部という問題だけなく、事故が実際に起きてしまった今、さらなる分断や差別を生みました。被ばくの問題、放射能の話題はタブーの福島、放射能の危険を訴える人と耳を塞ぐ人(それも地域の中と外で)、避難する人とそれを中傷する人、被災地の逆境の中で生きる人と被害を何一つ被らなかった人、被災した方々の中にも家がある人とない人、家族がある人ない人・・・それらに対してすべての問題に無関心な層。原発の反対運動の中や外でも。

汚染された被災地とされていない被災地という違いは、特にずっとひっかかっています。放射能汚染で警戒避難区域となった上に津波や地震の被害も大きかった福島の一部では、家族の遺体を捜しに土地に戻ることすらできなかった。震災直後、制御不能になった原発への対処に国の大半の力が削がれることがなかったら、地震や津波で凄まじいことになっていた被災地の救援がもっと迅速にできたのではないか、といつも思うのです。救われた命だってあったはずです。復興だって、こんなに複雑ではなかったはず。(余談ですが、除染をするかしないかの問題はそれはそれで存在するのですが、除染で出た汚染土に行き場がなく、敷地内に置いたままになっている住宅や事業所が福島県内には 1500カ所あり、今その量は家庭用のゴミ袋に換算して 26万袋分になっているとか(NHK調べ)。)

これは人権の問題だとも思いますが、人間だけではありません。浪江町(福島第一から20km圏内警戒避難区域)の牧場で、300頭の被ばく牛を育てている「希望の牧場」の吉沢さんの話などは、原発事故で一番被害を受けた第一次産業のダメージの最前線だと思います。(上記のリンクには家畜の死体などショッキングな写真が含まれます。でも、それがリアリティ。わたしは知ってよかったと思いました。)「棄民政策」、福島は国からも誰からも捨てられた、という言い方をする人もいますが、うずたかく積まれた牛の骨の写真を見ると、その言葉がズシンと入ってきます。いまだ危険な放射線量が続く20km圏内の、家々はあるのに人の暮らしがこつ然となくなった街、戻ることのできなくなった故郷、野放しになって多く亡くなったというペットたち、散り散りバラバラになったコミュニティや家族、自殺者、被ばくした子どもたち・・・震災の上に重なって起こった原発事故は、直後の被害や喪失だけでなく、半年後も、一年後も、今になっても進行する苦しみを生みました。

蒸気でタービンを回すだけのたったひとつの工場の事故で、もたらされるのがこの犠牲。しかも一部の地域と一部の労働者に危険なお世話を任せて、安全圏に住む人々が成果物を享受していた。経済発展の旗の元にもっともっと電気を消費して、原発の数の方に消費を合わせようとすらしていた。これらのことを考えると、自分は倫理を人に諭せるほど清らかな人間ではないですが、原発だけは倫理的に心底「正しくない」と思います。子どもが幼稚園の先生に教わるようなレベルの「やってはいけないこと」が社会の規模になると見失いにくくなるようです。

最後に、抑えておかなければならないのは、倫理感から離れて現実的な議論(経済への影響や電力需給)になっても脱原発には具体的な解決策が存在するということ。もう、これで、やめなくてどうすんだよホントに・・・。国民がやめよう!と強く訴えない限り、既得権益にからまっているおっさんたちは、この期に及んでも止める気はさらさらないわけで。ここで一般市民が蜂起しなければ、日本は本当に終わりだと思います。

2012/09/26

移住小咄2・ダウンシフトの好機

夫は日本の人ではないので、いつかは日本を出るつもりでいました。国をまたいだ引っ越しが人生の中で何度か起こるであろうことは、外国人をパートナーに選んだ時点でくっついて来た必然です。こんな前代未聞の災害に襲われた今じゃなかったら一体いつなんだ?というのもあったし、丁度うちの子が日本の小学校にあたる primary school 入学の時期だというのもあり、この夏のタイミングとなりました。あと、自分も夫も仕事面で環境を変えるチャレンジがステップアップ/キャリアへの刺激になるのではないかという考えもあったし、(夫にとっては母国だけど)わたしが今度は外国人になる側で、そういう試練(?)も自身の成長のためかなと(ちなみに「外国人」という点では、移住者がレアではない UK と違って、日本で外国人として暮らす方が厳しかったはず)・・・ということで、震災が大きな理由ではあるけれど、それだけに押されたわけではありません。そう決めつけたくない部分もあるからかもしれないけれど。すべてはタイミング。好機に結びつけられるものは、すべてする!

バタバタで自分のビザの手配や引っ越しの準備をはじめ、家を出る1分までパッキングをしていたようなカオス状態で飛び出たのですが、いざリビングを出て荷物を手にして玄関に向かうとき、住み慣れた家を見回して家族全員で抱き合って泣きました。別に強制移住させられるわけじゃなくて自分たちの選択なのに、やはり人とも、物質とも、場所とも、別れというのは悲しさを伴うものでした。大好きな家と街でした。ここでもまた、長年暮らした場所を突然奪われて戻ることもできないという福島や被災された方々の苦悩を想像し、この自分の比ではないと胸が苦しくなりました。ふたたび、腹もたちました。原発、ぜったいなくしてやる!(← 必ずここに着地)。

何かを掴んだグーの手のまま、新たに何かを掴めないように、大小はあっても必ず何かを手放して失わなければ、新しいものは手に入らないんだなと改めて思いました。

こっちにきてから、もうすぐ2カ月が経とうとしているのですが、物理的にというより精神的に落ち着くまで時間がかかりました(かかっています)。他の国で暮らすのは初めてのことではないし、10年ほど前から一時的にこちらにも何度も来ていたのだけど、その時よりもやはり生活の軸を移す大きな移動だったので、今までに感じたことのない小さな不安や不満がひと月ほどうずいていました。日本にはもう二度と戻らないのかなぁと考え込んでみたり、生活の中の些細な不便さを不満に思ったり。

福島第一原発が爆発した直後の昨年3月半ばに、ひと月こっちに来ていたときも感じた「(自分だけ安全圏に逃げてきた)後ろめたさ」のような気持ち、今回の移住でも少し感じています。誰にも責められていないのに、なんなんだろ。その自分の気持ちを打ち消すべく、そしてやっぱり自分の母国が健全であってほしい、子どもにも日本のことを忘れて欲しくないしアイデンティティを保っていてほしい、いつか戻れることがあれば懸念なく戻ることのできる場所であるように・・・と思うので、原発の問題の解決にこちらからできることをしていこうと思っています。

それともう1つ、意識していきたいのは生活のダウンシフト*です。日本でも個人の生活のダウンシフトはできたはずなので、そのために環境(国)を変えるなんぞ贅沢な話なのだけど、こちらでの生活の方が断然そうしやすい気がします。ダウンシフターとなることは、震災後、日本人の多くがひっかかった「これから生活を少し変えていかなければならないのでは」という漠然とした感情の具体的な出口だと思っています。これまで「便利さ/快適さ」の追求=豊かさであったのが、震災で人間の命や暮らしの中の物質を突然喪失する体験や、エネルギー問題への注目を機に、ずっと当たり前のように掲げられて来た「経済成長」に疑問符がつきました。いつまで経済は成長しなければいけないのか。いつまで電気を湯水のように使いつづけるのか。もう実は十分成長しているのでは・・・。【知るを足る】必要以上追い求めずほどほどで満足する、それが新しい時代の豊かさなのだと思います。利便性(例えば交通機関やインターネットの遅さとか些細なこと)を日本と比べてこちらの環境を不満に感じたのは、よいきっかけでした。便利さにおいては他国の水準が低いんじゃなんくて日本が高水準すぎるわけなので、それに甘んじてるとほんと感覚が鈍るので、照準を「ほどほど」に合わせ直して、徐々にダウンシフトをしていこうと(急には難しいだろうから、無理せずゆっくりと)。この個人的な試みの報告もしていければと思います。 

カタい話でなく、単にこちらの暮らしの珍体験(?)や土地の紹介を呑気に綴ることができればいいんだけどな。徐々にそうしたいと思っておるところです。 

【 Word 】ダウンシフター/ダウンシフト:消費を減らし、(たとえ収入が減ったとしても)労働時間を短くして、家族やコミュニティ、環境など、「より大切なこと」に時間をあてて関わることで、生活が充足する。生活のペースを下げて今よりもゆとりのある生活にシフトするという考え方。欧米やオーストラリアなど各国で広がりつつある - 中国は真逆な感じしますが)。世界の中にはもともと急がないのんびり時間の「天然ダウンシフト」な国や島があるから、先進国内でのコンセプトなんでしょね。

2012/09/24

移住小咄1・暮らしとリスク


先月から何ごともなかったかのように脱原発やアクティビズムあれこれしか記してきませんでしたが、8月のあたまに夫の国であるスコットランドへ越してきました(サラっと言ったけどもー!)。以下、このことについて、やっと整理ができる時間が持てたので、自分のきもちのメモとして。

きっと今年は人生の中のひとつの大事な岐路なのだろうと思います。昨年から移住の話はずっとありました(震災と原発事故がほんの昨年だというのが信じられないくらい、数年前な感じすらしますが)。周辺の外国人の知人友人の半数以上が昨年のうちに国に帰っていたけれど、わたしたちは「外の要因に迫られて引っ越すのは非常にしゃくである」として、越す時は自分たちのタイミングで越そうと決めました。

越すことにまっすぐ向かい合うまでに時間がかかりました(だから越すと決めてからのひと月半ほどが、すごいスピードで、周囲にご迷惑をおかけしたのだけど)。主に夫の仕事の理由が大きかったけれど、やはり生まれ育って生活を築いてきたところが心地よかったから。そして被災地の方たちと何も被災していない自分を比べて、贅沢だとも思いました - どこか越せる先があるということ。家族や家財が無事で、なにも失っていないということ。福島などから自分の住む町へ「移住」してきた方々もいるということ。

東京が 3/15のプルームで放射能汚染されたというのは事実だし、いまだに汚染地である認識をしています。それでも、そこで遊び場や食品にできるだけ気をつけて気を張って1年半過ごし、今年に入ってからは地震の活動期(関東の地震)や事故前と同じ構え方で運営され続ける原発への危惧も増してきました。これまで調べてきた中で、今後の地震の可能性・想定や汚染の度合いなどを見て、東京はかろうじて暮らすことのできる場所であるという判断をしていましたが、そうするならそれなりの備えと心構え(覚悟)が必須だと思いました。それも結構な間、ゴールがなかなか見えないままで。わたしは(放射能汚染にも地震にも)自分の注意力がおそらく持たずに、年月を経るごとに緩くなっていくだろうと思いました。子どもをその2つのリスクから守り抜くことができるだろうか?というのが一番の問いでした。大人2人だけの生活であれば、移住は考えなかったと思います。

しかし、その今の日本の放射能汚染と地震被害のリスクから遠ざかったとしても、他の場所にも他のリスクがあります。数ヶ月前に、北京で暮らしている知人が2歳の息子くんと東京に一時帰国して「日本の食べ物は安心して食べられる」と言って、向こうに送る用の食品や衛生用品を買い込んでいました(脱線ですが、放射能汚染を受けて諸外国が正式な輸入を禁じている日本の食品は結構あるんですけどね)。国内の放射能汚染のことももちろんよく知っているけれど、北京の大気汚染や農薬まみれの食品に比べたらマシだと。業務用の空気清浄機を4台も家の中に置いて毎日フル稼働させているけれど、数週間でフィルターは真っ黒で、毎晩寝つく頃には家族全員咳が出ると。空が大気汚染で灰色の日が大半なので子どもを外で遊ばせられる日はほとんどなく、室内に大型遊具を置いて遊ばせ、子どものことを考えて年に数回は日本に "保養" に帰っていると聞いたとき「福島じゃないか」と思いました・・・。度合いと種類は違えど、どこにも必ず存在するリスク。もちろんスコットランドも例外ではないと思います。それぞれの国にそれぞれ異なるリスクはあるけれど、内戦にしても、公害にしても、農薬にしても、放射能(原発)にしても、犯罪にしても、人の手によって生じているものです。そうである限り、時間はかかるかもしれないけれど、人の手によって防ぐことができるし、止めたり抑えたりできるものなはず(だから腹もたつ!)。かなわないのは、地震くらいでしょう。

日本で食べ物に気をつけたりすることは日常になっていたので特別なことと思っていなかったのだけど、こちらに来てから、日本では結構なストレスがかかっていたんだなということがわかりました。無意識に産地をチェックしようと食品の裏をくまなく見るクセが抜けなかったり、芝生で子どもがごろんとしたときに一抹の不安がよぎったり、少し家具が揺れたら地震と間違えて身構えたり・・・。ひとまず、これまでの非常事態モードを解除するところから始めないと。落ち着くまでしばらくかかりそうです。

《つづく》

2012/09/18

大衆運動と報道

朝日新聞のデジタル版に、TBSの報道局の方が書かれた『日本のテレビ局はなぜ反原発の動きを報じ損ねたのか?』というとても興味深い記事が載っていたので一部引用してダイジェスト版で紹介したいと思います。消えてしまう前に本当は全文転載したかったのですが、禁じられているので(全文はこちらから)。

表題のことについては、ずっと落胆していました。それをメディアの中の人が提起してくれたことは希望が持てる反面、やっとですか・・・という気持ちも。

「一色に染まりがちと言われている日本のマスメディアにおいて、首相官邸前や各所で展開されている脱原発、原発再稼働反対を訴えるデモ・集会をめぐっては、メディア間にはっきりとした扱いの違いがみられる ... この違いはどのような理由によるものなのか」として;新聞では、読売・日経・産経は明らかに脱原発の市民運動に対して「抑制的、あるいは露骨な嫌悪さえ滲ませている」報道、逆に、東京・毎日・朝日は「今回の事態に一定のニュース性を見出して、比較的大きく報じていた。とりわけ東京新聞は、紙面を大きく割いて集会・デモの様子を詳報している。」と。東京新聞の論説委員の長谷川幸洋さんもTwitter で日々原発問題に鋭く切り込んでいるし、(ほぼ)原発の特集枠もあって東京新聞の吹っ切れ方(?)は粋です。テレビでも温度差が各局の間に確実にあり、「同局のなかでも番組によって、さらには曜日によって違っている」と述べられています。テレビを見ないのでわからないんだけど、確かに TBS とテレ朝(特に報道ステーション)は比較的フェアな印象です。

暴徒化するような蜂起でなく、万単位の市民が「非暴力直接行動」という形で整然と街頭に繰り出し、しかも週に一度のペースで集っている。それが「有力新聞において全く無視されている事態に異様なものを感じる」という筆者の意見にわたしも同意です。

311前の "原発ルネサンス期"(原発が地球温暖化抑止になるとして - 本当はならないんだけど - 全世界的に原発推進を疑問を呈さなかった時代)には政府の国策に添った報道が席巻し、ルネサンスと呼ばれる時代以前からのことではあるけれど、脱原発の集会や運動にメディアは冷淡であり、市民の「異議申し立て」がニュースになるようなことは滅多にありませんでした。そこで起こった原発の過酷事故。チェルノブイリのときにも反原発運動は起きたけれど、国内でのこの事態に、切迫した市民が当事者性を抱えて本気で抗議に押しかけている・・・「その「本気度」が反映されて、参加人員の急激な拡大、運動の形態の自由な広がり、SNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)経由の圧倒的な情報の共有、主催者としての政党・労組の後退などいくつものニュース要素が登場してきた。そのことに既成メディアであるテレビは気づいていただろうか?それまでの10年余りの報道の日常感覚に埋没して、「どうせデモやるああいう人たちでしょう」というような慣性・惰性に支配されていなかったか?」・・・ここで筆者は重要な指摘をします。テレビの編集長クラスに 311前の10年(失われた10年)ほどの間に刷り込まれた大衆運動軽視の感覚に色濃く影響された世代が多く、「換言すると、スリーマイル島、チェルノブイリ、JCO事故直後に報じてきた異議申し立ての動きの価値を、これらの世代に継承できなかった僕らの世代の責任」もあるだろうと。

また、「後続世代の大衆運動、社会的な異議申し立てに対するアレルギー、嫌悪感、当事者性の欠如には凄まじいものがある。デモや社会運動という語にネガティブな価値観しか見出せなくなっているのだ。これはおそらく日本的な特殊現象であり、かなり異様な事態である。欧米では、言うまでもなくデモは権利」と言及し、そういった彼らも、アラブの春など国外の大衆運動についてはポジティブな評価を与えている、という指摘も。日本では爆発的な印象こそないけれど、諸外国の昨今の革命に似た動きになってきていると思うのですが。やはり Twitter などの影響は無視できないと思うのだけど、メディア側がいまいちそのスピードに乗り切れていないのかなぁという感じも。

そして根本的な問題点で、日本のメディアのスタンスとして、国民よりも権力側に近い感覚を持つ「官尊民卑」の思想があり、デモの報道の際も警備する側の立場に報道機関側が同調していると、NY Times 東京支局長のコメントの引用文を交えて述べています。(この "「官尊民卑」がもたらす取材感覚の欠如 " の項だけでも、是非原文で全部読んでみてください!お願いします!って誰に頼んでんのかわかんないけど。)

最後に、首相官邸前抗議に 5万人近く集まった日にも取材クルーをまったく出さなかった NHK に対し、どうせ NHK もどこもヘリを飛ばしてこの様子を記録してくれないだろうと怒り諦めた市民によるカンパで、その翌週に民間(「正しい報道ヘリの会」)でヘリを出して報道・撮影がされたという逸話を紹介し、メディアの情けなさについて触れたあと(わたしもオンタイムで Twitter でこの件を追っていましたが、本当に日本のメディア情けねえなぁとつくづく思った)「NHKの現場の記者たちのなかにも、息苦しさを感じている人たちがたくさんいる。彼らは今、声を潜めている。組織の論理が記者の良心を押し潰しているのだ。」と、若干ディフェンスに入りつつ「メディアに関わるひとりひとりが考えるべき時が来ている」と結ばれていました。なんか、これも悠長なもの言いな感じがしますが、実際に内部的な抑圧と闘って骨のある報道されているようなメディアも見かけはするので、そういう報道の方々の人口が増えてマジョリティとなることを願います。そうなるように、わたしたちもメディアに対して反応をしないといけません(これまでに何度かテレ朝の報道ステーションと朝のモーニングバードで原発の問題をきちんと報道してくれたときに褒めるメールを投稿しました。3分で終わります。けなすだけでなく、よいことをしたら褒める!褒めて育てる!)。

ちなみに、この記事の筆者(金平茂紀さん)のプロフィールに「筑紫哲也 NEWS23」編集長、とあって、あーやっぱり筑紫さんの意思を継がれてる方なんだなぁと(涙目)。・・・では、今晩はこんなところです・・・。

2012/09/11

中長期なんて悠長な

今日、9月11日で震災から丁度一年半です。毎度毎度いまだに口を開けば原発のことしか話さないわたしですが、やはり思い起こすはメルトダウン、もとい、メルトスルー・・・あんなことがあってから一年半後にいまだ政府がこの国の原発を即時なくすという決断をしていないなんて(その一方で先日、タイの副首相は「国民を危険にさらしたくない」という理由で原発の導入を断念する発表したそうです。福島の事故を受けて、とのこと。)。被災地の復興だって、問題は山積。廃炉に向けての道のりも長いわけで、早くに始めるに越したことはない。

今の政府というより、経済界電事連や経産官僚の汚ない圧力によってなかなか事が運ばないのはわかっているけど、政府も民主党も「原発ゼロ」の方角は向いていても、まごまごしやがって中途半端な宣言に留まるのみ。しっかりせぇよ。
民主党のエネルギー環境調査会の素案(9/4時点)では;
・原発は40間年の稼働で廃炉
・原子力規制委員会の安全確認を得た原発のみ再稼働
・建設中を除き原発の新設・増設はしない
の3原則を明記。この原則を厳守することで「2050年代前半には国内に稼働する原発はゼロとなる」とする一方、脱原発を求める世論の高まりを受けて「原発ゼロ社会を可能な限り早期に実現すべきである」とした、と。2050年て。うちの子、42歳なんですけど。

・原発に依存しない社会の一日も早い実現
・グリーンエネルギーの拡大
・エネルギーの安定供給
を三本柱にするとして、新規増設はしないとも言っていますが、安全基準を満たせば40年上限に活用するとも言っており、お前はなにがしたいねん!と。しかし褒めるべきところもあり、高速増殖炉もんじゅ(アナウンサーが言いにくい言葉ベスト3に入っている難ワード。みんなも発音してみよう!)や原子力委員会の廃止、使用済み核燃料の処分問題の解決に直ちに着手(というか着手してなかったんかい)、発送電分離を断行、などなど進捗は見られます。

以前から思っていたことだけれど、日本は、政府は「長期的に」は脱原発に向かっていることは間違いないし、そこのところではまやかしはないのだと思うのだけれど、かえって面倒なのは「長期的でいっか」としちゃっている呑気さです。危機感ゼロ(誰も責任をとらなくていいシステムになってるからね)。紛れもない地震の活動期の今、そんなことを言っている間に過酷事故がもう一度起きてしまう - 再稼働すると10年以内に過酷事故の可能性があるという原子力委員サイドによる試算すらあるのです。二度目は絶対にあってはならない。第二の福島を、国内のどこにもつくってはならないし、狭い日本でもう一度同じことが起これば、暮らす場所も畑を耕す場所もなくなってしまいます。先送りしている猶予はないし、電力自体も原発をすべて止めても足りている。大飯原発を再稼働させなければ夏は越せないと、関電は大ウソこいて急かしたけれど、結果動かさなくても電力は供給できました(チャンチャン♪)。中長期というのは、来週も来月来年も安泰であってこそのタームで、間近な日々が正常でない限り「中長期」な先なんてやってこないのです。まずは被災した方々や地域を復興の軌道に乗せ、子どもを健やかに育てられるような環境にして、人間が生きるのにリスキーすぎる原発をきちんと止めてから、それから「中長期」とかほざけよ!と言いたい(怒)。

原発の即時撤廃を求める民意に逆行するような暴挙を、数えられるほどの一握りの官僚と閣僚が平気で行うのは独裁政治ですよね。これは原発の問題に限ったことではない。腹立たしいことではあるけど、それを許して黙ってきたのはわたしたち。いまの議員たちを選挙で選んだのもわたしたちです。政治は民度を反映したレベルにしかならない。昨年の4月の選挙はショックの中でみんなきちんと考えられなかったのだろうと思うけれど、来る選挙ではこれまでと違う有権者の動きが見られるかな。Twitter で誰かがつぶやいていたけど「この原発事故で変われなかったら、日本(人)はもうダメかもね」というのは、強くうなずきます。

【気になる情報】
先日の投稿でも熱く紹介した首相官邸前抗議ですが、金曜夜の抗議活動は全国各地に飛び火しており、大阪関電前でもかなり関西パワー炸裂らしいという情報が。いいなー。やっぱり怒り方とかストレートでいいなー。あ、関西の方はゼヒ関電前へ!

【 9/12 追記 】
有感の余震、一年半で 8300回 ... そろそろ原発やめようね、もう。

【 9/14 追記 】
今日、政府のエネルギー環境会議が「2030年代に原発稼働ゼロを可能とするよう、あらゆる政策資源を投入する」ことを骨子とした革新的エネルギー・環境戦略を発表しました。30年代、ということはつまり「2040年まで」。やはりそんな悠長なことはのめません。また、使用済み核燃料の再処理問題や、たまる一方のプルトニウム、放射性廃棄物の解決については、この戦略の中ではっきりした道筋を言及していません。原発を動かし続ける限り、これは解決どころか問題が膨らむ一方なのにスルー。本気じゃない感じがします。
また、原子力産業協会が、この政府の指針に対して「脱原発など許さん!」(と言ったかは知らないけど)反論してきたとのこと(参考:それに対するピースボートの川崎哲さんの反論)。アメリカもご機嫌よろしくないようだし、経団連の米倉会長は首相に電話しちゃうし、いろいろと圧力はある模様・・・。

2012/09/09

それは、わたしだった

あることについて
いつもなんで誰もそれをやろうとしないんだろう?
と思っていた。
そして、気づいた。
その "誰か" は自分自身なのだと。

というのはどこからか流れ着いてきた格言(言った人不詳)ですが、本当にその通り。すべての大小ある社会の問題の解決に取り組むことはできないけれど、イシューについてはこの世に暮らす各々の役割分担なのかなと思います。

昨年から(厳密には10年前からですが)ゲンパツゲンパツと騒いでいるわたくしですが、他の数多ある世の中の問題たち、時事で言えばオスプレイもシリアも気になりながらもきちんと向き合っていません。その他、小さな自分の身の回りの問題も存在するし、カタいこと抜きの娯楽の時間もあるし、仕事も家庭のケアもある。同様にこの世のわたし以外の人々全員にもそれはあります。寿命に幾分違いはあれど、いっぺんに抱えられる荷物の量はみんな同じだと思います。だからできるところを、できる分ずつ、シェアして取り組めばいいのだけど(理想)。

社会のため、というと大仰だけれど、自分が属する場所や子どもの未来の向上のことです。

先日、市民運動とは無縁の、うちの子の幼稚園のお母さんのひとりから嬉しいメールをもらいました。
「この夏は社会勉強を兼ねて子どもを国会包囲にも連れていきました。私のような事故の前には無関心だった層が意思表示をすることに意味があるように思うので、日常の一つとしてできる行動を続けていこうと思っています。」
まず、これまで声をあげてこなかった人々の意思表示の大切さに触れてくれたことに感涙。プロ市民と呼ばれるような活動する人々の人口はたいして増減ないでしょうが、新規参入の「意思表示するひと」の数がある意味勝負なようなところはあります。そしてもうひとつ、これからの世代への「意思表示の踏襲」です。このママさんはそこまで考えて国会包囲に子どもを連れて行ったのではないと思いますが、わたしは子どもさんの記憶には何かが刻まれたに違いないと思います。デモに子どもを連れて行くのは危険だ(大勢の人でごった返していて危ない/都心の放射線量がそこそこ高いなどなど)といろいろ賛否両論ありますが、わたしは「本物の社会科見学だ!」と言って(あと、帰りにアイス買ってあげる!とかで釣りつつ)デモや抗議に子どもを連れ出していました。何より彼女が大人になったときに、自分に直に関係ないと思われる大きな社会の問題でも(実は必ず関係しているから)全体を思って、声を上げるべきところで意見できるようになってほしいなぁと、いうのがあります。彼女の記憶のどこかに、デモの記憶が少しでも染み込んでいれば、それが当たり前の権利だという考え方をしてくれると思うのです。

昨今のデモなどで、日本で民主主義が最近目覚めてきたというようなことを言われますが、今だけでなくて子ども世代も続けて今沸き上がっている状態を保ってもらわないと、原発問題に関わらず、政治が勝手に動くままに着いていくようでは先行き暗いです。原発の問題も一発で解決して「はい、全基廃炉になりました!勝ちました!」で決着がつくものではなく、長期的にベターになっていくものだし、次々と表れる別の問題を解決しながら進んでいかなければなりません。民主主義も同じで、リペアを繰り返してよりよい状態に保ちながら、つないでいかなければならないものです。行政や企業への監視を怠れば、後退もするでしょう。わたしたちが、望む方向へ進むよう、舵を握るひとたちへしつこく要望をしつづけていかなければ、船はときによからぬ方向へ進みます。幸い、日本では政府に反論したり政治的な運動をしても投獄されたり暗殺されたりしません。そんなえらいことになってしまう国もいまだにあるけれど。

声を少し大きめにあげてみませんか。たくさんの乗員が他にもいるけれど、あなたもわたしもこの大きな船の一員だから。

「最大の悲劇は、悪人の暴力ではなく、善人の沈黙である」- Martin Luther King

2012/08/31

夏の終わりのアクティビズム・レビュー2

アクティビズム・レビュー、つづきです。とりあえずこれを残しておかないと・・・。

7月から今月12日まで、政府は原発比率の選択肢(2030年に原発が 0% or 15% or 20-25% の3択)を提示した日本のエネルギー政策の行方を決めるパブリックコメント(意見公募)を募集していました。パブリックコメント(パブコメ)はこれに限らず、様々な政府の政策について行政によって行われているものですが、「市民の意見を聞きましたよ」というアリバイづくりで終わることが多く、結局デキレースで結論が決まっていたり。意見公募と言っておきながらPR もせず目立たないところでひっそり募集して終わっていたり。市民側の用意した署名やデモは無視できても、自分たちから意見を求めて公式に集計した結果を無視できないはず。パブコメはこれといってない好機として、脱原発を目指す NGO たちがパブコメの周知と参加を呼びかけるキャンペーンを張りました。ほんとはこのブログでも書いてください!と載せたかったのに・・・今月は波乱だったのでできず(悔)。

結果、集まった意見は約9万件(政府のとりまとめ結果PDF)。パブコメにおいても、同時に各地で行われた意見聴取会でも、0% を求める声が大半でした。原発国民投票の 32万筆というのもあるし、さようなら原発の1000万人署名でも780万筆、また、世論調査でも市民の7割が脱原発を求めているという結果もあります。これでもまだ政府は原発の温存と継続の余地のある 15% 以上の案を出し、真ん中の 15%案を落としどころにしようという画策は明らかでしたが、予想を超える圧倒的な 0%指示に、政府も若干ではありますが動き始めました。

しかし腹が立つのは、先日パブコメの内容を検証するための会合(なんだよそれは)が開かれ、政府側が望まない予想外の結果に「パブコメは意見の強い人が出すため偏る傾向」「若年層は 20-25%指示が多いからもっと調べないと」「多数派の意見とは違う選択をするという余地を政治は持たねば」みたいな子どもみたいなこと言い出しちゃったので、さあたいへん(選挙のあとに望まない結果なら「この選挙は民意を反映してない」とか言うのか!というツイートもありましたが・・・ほんと、何のための「意見公募」だったのか呆れますな)この先どういう位置づけにされるのかわかりませんが、原発の即時ゼロを求めた人々は激しい怒りで鬼のようになっています(少なくともわたしは)。

原子力ムラの面々が明らかに大半を占める原子力規制委員会の公正を欠く人事問題などなど、絶え間なく燃料(=反原発運動の原動力となる怒れるニュース)は耐えません。

【 9/6 追記 】
      規制委員会人事、国会素通り(東京新聞)
・さらなる怒りの燃料・其の一:
つまり、再処理の建前は原発を続けるための方便だった(ウソ1)+燃料として核のゴミの一部を再利用するための再処理ですが、その「再利用(核燃サイクル)」も実は不可能なんだよね(ウソ2)・・・。
・さらなる怒りの燃料・其の二:
・さらなる怒りの燃料・其の三(トドメ):
事故前には「活断層の真上に原子炉を建ててはならない」基準だったのが、あの大事故の後の今「原発直下でもズレの量が小さければ運転継続可能」と。え、断層ズレた地震のあとに、ズレの大小や原子炉への影響がわかるんじゃないんすか?(子どもでも突っ込める矛盾)。
そして家庭用の電気料金は上がっても東電では冬のボーナスが出ると。壊滅的震災と原発メルトダウンのほんの翌年に、20億円はたいて島買っちゃおうかなぁとほざく、この国。はぁ、もう血圧上昇しきって針振り切れてるんすけど・・・。

2012/08/30

夏の終わりのアクティビズム・レビュー1

パタリと更新が途絶えて放置されたブログをよく見かけますが、自分のが早々とそうなるとは思わなんだ。いやはや。 更新をしない間、脱原発の運動にも、個人的な環境にも大きな動きがありました。

8月も終わり。小中学生なら宿題に追われているのかな。 わたしも長い期間の宿題の提出として、誰のためにってわけでもなく、国内のアクティビズムのまとめをしたいと思います。個人的なご報告は後回しです。

5月から今現在にかけて、首相官邸前でほぼ毎週金曜日に行われている原発反対の抗議。テレビでも「普通のひとたちが仕事帰りに立ち寄る」抗議行動としてやっと報じられ(フツウの人というのは活動家ではないんかい・・・アクティビストも普通の人間なんだけど)、反対運動に関わられていない方も耳にされたことがあると思います。当初数十人の規模が、週を追うごとに Twitter などを通じて参加者が増え続け、6月下旬には数万人(主催者発表10万人)の規模になり、ヘリも上空を飛び回りました。わたしが行き始めたのは5月下旬頃だったと思いますが、数十人、数百人の参加者から徐々に増え、抗議が熱を帯びていく様子は身をもって感じてきました。国民の大多数の反対をよそに大飯原発が再稼働されてしまった7月頭を過ぎても、抗議は止むことなく続き、政府の判断にさらに怒りが大きくなって、勢いは衰えるどころか膨らみ続けています。

 6/29 官邸前に溢れる抗議参加者
(上:(c)任田辰平さん、下:(c)野田雅也さん)

ほんと、遅ればせながら知らない方ために(また記録のために)説明すると、この抗議行動は警察に事前申請をしてルートを練り歩くデモやパレードとは違い、首相官邸前という公道にただ集い、おうちの中にいるであろう(いなくたって)野田首相に向かってひたすら「再稼働反対」一点の抗議/要望/非難の声を投げるシンプルかつ強力なプロテストです。集うだけなので、その場に立ち、歩くこともありません。門前は「スピーチエリア」と呼ばれ、集った人たち各々(物申したい有志)がマイクを使って短いスピーチやコールをし、それをひたすらつないでいくものです。福島から故郷を追われた方々からの叫びもよく聞きます。首相官邸「前」は限られたスペースとなるので、もちろんそこを先頭に長い列が道なりに延々と続くわけです。後ろに並ぶ人たちもそのブロックごとにリードしてコール(「再稼働反対!」)するひとなどに続いて声をあげます。特にルールはありません。警察も警備にもちろん大量に出ていて、主催の交通整理担当さんたちといっしょに一応公道として機能できるように人が通行できるスペースを開けるよう努めていましたが、数万人の規模になったときは車道の一部が解放されました。そのときは国会議事堂駅からは列の最後尾に行けず、溜池山王や周辺駅から列に入りました。最近ではタクシーで首相官邸前に乗り付けるひとも多い模様。チャリで乗り付けるチャリデモも。地方から団体で乗り付けるバスも。

子連れでデモや抗議活動に行くことに危険だなんだと非難の声も耳にすることがありましたが、なによりの社会科見学と思い、わたしは子連れで何度も足を運びました。このデモンストレーションの特徴として、2時間限定(午後6時から8時)という淡白さがあります。一時期規模が最大になったときには全共闘のおもひでとともにいまだ生きている方々には物足りないようで、暴れたがっているおっさんらもいて一時期そのやり方に対してひと悶着ありましたが、いまは概ね理解が進んでいるようです(過去のポシャりからいまだ学んでいない自己満足な方々に主催の方々も凹んでましたが・・・そういう一部の輩の愚行から過激でネガティブなイメージがつき、活動の継続や広がりが妨げられるようなことが起こる前に撤収しているわけで)。2時間限定、会社帰りに立ち寄れて(わたしはわざわざ上り電車に乗って行ってましたが)切り上げた帰りに一杯ひっかけて帰ることだってできる軽さ。しかし自由に各所から集った各々が、ひたすら熱く、あるものは叫び、あるものはただそこに無言で立つ。その2時間をひたすら毎週継続して訴えるというスタイル。出入りも自由なので、わたしは子連れ参加の時には30分参加して早々に帰ることもありました。この極めて新しいスタイルが継続を支えているわけです。いまでは子連れ専用ファミリーブロック(エリア)もできているとか。結構ハードコアな抗議なのにそこで冷水まで配布されているという気の遣いよう。こういった様々な配慮や、どう一般的に「見られているか」を気にして、引かれないように、普通の人々に入ってもらえるかたちを常に意識していた、運動にどっぷり使っていなかった比較的新しいプロテスターからなる(この抗議の主催である)「首都圏反原発連合」にしかできなかったことだと思います。特定の団体や組織のカラーもない、個人の怒りを束ねる透明な器になろうとしていた点が、過去のセクト的な運動との大きな違いのひとつです。 この梅雨時に大きくなったアクションはネット上で「紫陽花革命」とも呼ばれていました。

この首相官邸前抗議が、ここ数ヶ月の脱原発プロテストにおいて記しておくべき重要なアクションに違いありません。極めつけはこの「首都圏反原発連合」(各地でそれぞれデモを行っているグループの集まり)の代表たちが、今月22日に、首相との面会を果たしました。首相へ直接、面と向かって抗議の声をぶつける機会にまで繋げたのです。バリケードを壊して警官隊と揉み合いながらの突入ではなく、非暴力抗議を貫いて、オフィシャルに堂々と官邸内へ突入したわけです。原発反対の市民の声の膨らみと持続は、これまで無視していた首相も議員も官僚もメディアも無視できない規模となりました。明らかにこれまでの一部のプロ市民の声ではない。わたしはこれまで生きてきて、ここまでガツンと「継続は力なり」の事例を突きつけられたことはありません。これからは子どもに「これやってて意味あんの?」的なことを言われたら「反原連の例を見なさいよ」と返しましょう。

歴史的アクション、毎週金曜日の首相官邸前抗議は今でも続行中。行かれたことのない方は、ぜひ一度5分でもいいので立ち寄ってみてください。本当の民主主義のために、拳をつきあげるエネルギーを肌で感じてみてください。一部になってみてください。若い方なら特に。

2012/05/07

Fair Trade, Fair Energy!

昨日につづき、もうひとつ、Tシャツのお知らせ。

先日、フェアトレードPeople Tree と国際環境 NGO のグリーンピースのコラボ Tシャツをデザインさせてもらいました。ただ今発売中です!

この企画は、People Tree がグリーンピースが提唱する「自然エネルギー革命シナリオ」に賛同して実現したもの。自然エネルギーへのシフトと節電などのエネルギー効率化によって、原発を止めても電力をまかなうことが可能な社会にしようと呼びかけるための 2つのメッセージ "Fair Trade, Fair Energy" / "Nuclear Free Japan" がついたオーガニックコットンTシャツです。原発のように一部の地域(の人々の生活と労働環境)に危険を押しつけない自然エネルギーは、公平なエネルギーといえます。地球環境にとっても負荷が少なく、そういった意味で次世代と今のわたしたちの関係性を考えても、サステナブル(持続可能)な自然エネルギーは Fair Energy! (オレンジの方:風車と手紡ぎの糸車(フェアトレードの象徴ともいえるカディ)のモチーフ)。もうひとつ、グリーンの Nuclear Free Japan の方はまさに2日前に達成した、原発依存からの脱却(解放)、原発ゼロになったぜ日本!!そしてそれはわたしたちの手によって達成されたものだぞ!ということで、みんなでコンセント引っこ抜くの図。描いたあとに、「あ、これ日本列島の形になってるな・・・しかも(最後に止まった)泊原発のある北海道部分にコンセントの穴がっ!」という衝撃の偶然!これはもう最初からそう意図してたんですよ、と言っちゃうしかない。と・・・そんな感じでできております。

この Tシャツ(ユニセックス XS 〜 L サイズ)は 5月12日の世界フェアトレードデーを中心に今月のフェアトレード月間中、販売されます(ご購入はこちらから ☞ People Tree オンラインショップ:グリーン Nuclear Free Japanオレンジ Fair Trade, Fair Energy 、または直営店でも)。価格は 1500円で、インドのオーガニックコットン 100% 。耳の不自由な女性や貧困家庭の女性に雇用を提供しているフェアトレード生産者団体「アシシ・ガーメンツ」で縫製されたものです。

フェアトレードは衣料や雑貨などの工芸品だけでなく食品などでも徐々に一般的になってきましたが、People Tree は国内でフェアトレードの先がけともいえる存在(日本だけでなく UK でも展開)で、クオリティだけでなくファッションとしてのデザインも優れているので、10年ほど前から好んでよく購入していました。以前オーガニックコットンの赤ちゃん用ビブのデザインコンペでも最終選考に選んでいただいたり、以前からもろもろつながりがあったので、今回のご縁は嬉しい限りでした。

ちなみにですが、密かに(って言っちゃったらもう密かでないんだけど)Nuclear Free Japan の「ひとびとの手」はベン・シャーンへのオマージュです。わたくしなんぞが僭越ながら。水爆実験で被曝した第五福竜丸についての絵本「ここが家だ」の挿絵で有名なベン・シャーン。今年のはじめに神奈川県立近代美術館で大規模な回顧展「ベン・シャーン/クロスメディア・アーティスト」があり、見てきました(このこともずっと書きたかったのだけど書けずに5月だよ。近いうちにまとめたい・・・)。社会問題を提起する作品をつくり続け「社会派リアリズムの画家」と呼ばれた彼の描く「手」。それは人々のプロテストの象徴としての力強さだったり、人間の弱さだったり、理不尽な世界への怒りや哀しみだったり、人への優しさだったりします。今回の、コンセントを引き抜く手たちには、そこまでの感情は含められなかったけれど、とにかくみんなで原子力の電気との決別を果たした(果たす)のだということが表現できればと思いました。
(ベン・シャーンの「手」たち)

関連リンク:
(グリーンピース・ジャパンのプレスリリース)

原発ゼロの日がきた

昨晩(5月5日)夜11時過ぎに北海道の泊原発3号基が定期検査のために停止し、国内で稼働している原発はひとつもなくなりました。ひとまず祝。

昨日は、5.5原発ゼロ「さようなら原発1000万人アクション」の集会とパレードが芝公園であり、約5000人が集まりました(参考:ワシントンポストが報じた写真)。行きたかったけれど、あまりの青空と暖かい日差しの晴天に、洗濯物をしてまったりしていたらあっという間にお昼過ぎ。子どもの日だけに、今日は子どもとゆっくりのんびり過ごすのもいいか(「原発ゼロかぁ」としみじみ味わいながら!)と思い、サンドイッチをつくって近くの公園へ。若葉やありんこを眺めたり、なんとも平和な午後を満喫してみました。泊原発が止まる夜中に向けてのカウントダウンパーティーも夕方に都内でいくつか行われていたようで、これも気になっていたのだけど、公園の帰りにコンビニで東京新聞*を買って家路に。(*昨年半ば頃から東京新聞は脱原発支持に論調を固め、一貫して真っ当な記事を書いてくれています。対して朝日と毎日はどっちつかずだけれどまだよい方で、産経、日経、読売は原発推進にもなれない "対抗馬としての役割を果たすべく「反・反原発と構える俺ら」アピール記事" みたいな・・・稚拙すぎてよくわかりません。)


この記念すべき東京新聞をじっくり読んだあとは(昨日宣言したとおり)これで「原発ゼロかぶと」を折ってみた。これを持っていざ、今日は脱原発杉並の原発ゼロ祝賀デモへ。

しかしながら、有象無象のマーチングバンドとピエロが躍り出たデモ出発のそのときに、天気が一転!大粒のスコールのような雨が振り出し、かぶとは一気にヨレヨレに(しょぼーん)。雨具もなく(あっても雨具が役立たないほどの雨だったけど)濡れた肩から寒さがじわじわと・・・それでも雨宿りを繰り返しながら、子どもをひっぱりつつ雨の弱まった間に歩きました。一時、ゲリラ豪雨みたいな数分があったかと思うと、小指の先ほどのひょうが地面や壁を叩きつけ始め「ここは一体どこなん?!」。ある意味、思い出深いデモにはなったけども。(ちなみに、都内では小さなひょうでしたが、今日竜巻の被害もあった茨城の方ではゴルフボール大のひょうが降ったとか。天変地異な感じですね・・・原発止まったから?)

さてさて。電気足りなくなるぞ!の電力会社側の言い値(ウソ)での脅しや、経済停滞すんぞ!の柔軟性のない保守な価値観(解決策の前に「ただ今まで通り」を保持したい or 利権)や、停電して自宅で医療機器使ってる方たちが死ぬぞ!の極論(これまた解決策を「原発を動かす」のみに設定して)などなど、どーしても再稼働させたい派は一旦ちょっと置いといて。この原発ゼロの祝賀に対して、原発は予定通りただ定期検査で止まったんだ(おまえらが止めたんじゃない)とか、止まったって危険性は変わらないだろうとか、言う方たちもいます。そう、原発が止まったのは自らのトラブル、事故や、定期検査によるものです。だけども、その検査が終わってすぐに動かされようとしていた炉もありましたが、「安全性を懸念する声」によって流れました。何を隠そう、その声は、それを阻止した圧力は、わたしたち市民によるものです。311以降の14ヶ月間、止むことなく日本全国のどこかで毎週行われていたデモや抗議行動によるものだと、わたしは思います。

再稼働をすすめる動きはこれからが本格化していきます。わたしたちも気を緩めてはいません。決意を新たに。日本中(ついには世界中)の原発が、一時的にでなく永遠にゼロになる日を目指して。「子どもの日」は、子どもたちのために大人たちが何ができるかを考える日なのかもしれません。少なくとも、今年の子どもの日はそうだったかな(だといいな)。

*おまけ* この記念日にと、Tシャツをつくって子どもにプレゼントしました(脱原発 no nukes 仕様パタゴニア風)。さっそく雨でびしょ濡れになっちゃったけどね。
原画 ↓
【 5/8 追記 】
龍やら巨大グリーン鯉のぼりやら、有象無象いろいろ入り乱れてました。杉並デモの写真(1)写真ルポ【祝!原発ゼロ 脱原発杉並+原発やめろデモ】(2)脱原発スモールアクション)。

2012/05/02

原発ゼロの日がくる

先週の日曜日、4/29 に 反原発 twitter デモがいつもの渋谷であり、子どもと行きました。何回目のデモだったのだろう。もう忘れちゃったな。twitter デモはその日で一周年だったようで、もんじゅくんも飛び入り参加して(!)1000人超。いつものように、ただただ一心に「原発いらない/やめよう」とコールをあげる強さのあるデモでした。それに加えて「あと1基!(で国内の稼働原発ゼロ)」のコールも。この、あと数日で稼働原発がゼロになるというタイミングもあってか(プラス、twitter デモがこれから少しだけお休みになるというような話もちらっと聞いたのでそれもあるのか)いつも以上にスピリットの感じられる、響くデモだったように思います。うちの子もなんだかいつもにないほど声を張りあげていました・・・「さいかど〜う はんたいっ」。

( ↓ あ、これ、もんじゅくん。大人気。)

5月5日のこどもの日に、北海道の泊原発3号基が定期検査で停止し、国内 50基(54基でしたが福島の4基が正式に廃炉となったため)すべての原発が止まります。ゼロにならなくても、1基しか動いていない今現在でも、原発がなくても電気が足りてしまっていることは明らかになっているわけですが、それが決定的になります。実に 46年ぶりに、日本でひとつも原発が動いていない日が来ます。46年間も原発漬けだった、わたしたち。国内外にあれだけの犠牲を出した(出している)世界的な大事故にならなければ、止められることができなかった原発。本当は 1999年の東海村JCO臨界事故でだって脱原発に舵を切ってもいいくらいの凄惨な事故だったし、その前後にもたくさん中小の事故がコンスタントにあってそれを電力会社が隠蔽していたことだって報道されていたのに、忘れたり見過ごして追求を放棄してきた大人たち・・・。象徴的に、未来を担う子どもたちのための「こどもの日」に、原発がゼロになります。その脱原発に象徴的な日となることを避けようと、先月福井県の大飯原発の再稼働が拙速に粛々と進められていましたが、市民の猛抗議もあり、5月5日前に押し通されることはありませんでした(時期がズレただけで、まだ油断はまったくならないのだけど)。

そう、一時的に一度ゼロとなっても安全を軽視した "再稼働ありき" の再稼働の強行は今後もあるわけで、まだゴールも遠いのですが、一回祝っとこ!もう再稼働なんて言わせないくらい大げさに祝っとこ!みんなに原発ゼロを知らしめよう!という「祝!原発ゼロ パレード」が 5月6日に杉並であります。前回 2月のデモも、有象無象と名乗るだけあって、カオスとはじけ方が尋常でなかった杉並デモ。期待できそうです。
「この 1年間、怒りに満ちたデモがたくさんあった。政府や電力会社に要求を突きつける抗議行動もたくさんあった。このすがすがしい原発ゼロ!を、そんな数多くのデモや行動も成果とみなしてもいいんじゃないか。その喜びをみんなでいっしょに歩いて分かち合いたい -(略)全50基を廃炉に追い込むまで、しぶとく、しつこく訴え続けていかなければなりません。この喜びの日は、新たな決意の日でもあるのです。」(脱原発杉並デモ呼びかけ文より)
合意!さすがわたしが10年住んだ第二の故郷(勝手に)杉並やね。さすが民権運動盛んなリベラル中央線カルチャー。すてき。わたしは好きです(断言)。行きます。

5月5日の当日にも「さようなら原発 1000万人アクション」の方でイベントとパレードがあります。こちらは芝公園から。こどもの日ということで、緑の鯉のぼりがモチーフ/デモに持っていくアイテムのひとつになっています。これもよいのだけど、個人的に考えたのは「脱原発かぶと」はどうかなと。あの、新聞で折る大型かぶと。脱原発の論調の東京新聞でゼヒ折るべし。

ちなみに、先日の twitter デモの前に(同日に同じ代々木エリアで)レインボープライド(LGBTパレード)があってそれにもサポートのために(見学だけだけど)出向きました。少し小規模だった気がするけど盛り上がってた!そこで勢いもらって次のデモへ。うちの子はたぶんサーカスか何かだと思ってたかも・・・連れ回してしまいましたが、ま、この日は多様性と市民運動の社会勉強ということで。さすがにデモはしごは夜には母子ともにぐったりでした。よく歩いた!

さ、5日まで、カウントダウンです。

2012/04/18

本の挿絵をかきました

原発再稼働あれこれも書きたいのですが、今日はめずらしく仕事の PR です。脱原発関連でつながった合同出版の編集者の方から、昨年の暮れに本の挿絵のお仕事の依頼を受けました。自分はちょこっとしたものなら描くけれどイラストレーターではないので、少し戸惑ったのですが・・・必死こいてやりました。その本が先日発売されたので、紹介させてください。(注:表紙は装幀をされた別の方が描かれたものです)

 移住労働者と連帯する全国ネットワーク(編)
移住者というのは当然ながら、日本で暮らす外国人のことです。帯とカバーには「いま、日本には多くの移住者が、さまざまな形で暮らしています。しかしその姿は、日本人=マジョリティの側からは、あまり見えないかもしれません。しかしそれは、実際には「見ようとしていない」だけかもしれません。(略)私たちの「見ようとしていない」姿勢が、日本で日常を送っている移住者にとって生きにくい社会をつくっているのではないか。」「(略)この本を読めば、移住者の人たちが日本で暮らしていて何が問題なのかを知れ、どうすればもっと魅力にあふれた移民社会にできるかがよくわかります。」とあります。ここは日本なんだから文句言わんと生きにくけりゃ自分の国帰れや!とちょっとイデオロギーのあるおじさまにすごまれるかもしれませんが、日本の経済の一部は外国人労働者に支えられていて、ごそっと帰国されるようなことがあれば困るほど彼らがその一端を担っていることは事実。そのことがなくったって、国籍が違えども同じ人間なのに、差別意識のようなものが潜在的に日本人の中に多くあるのは、国々が地続きで移民の行き来が多かったヨーロッパなどに比べて日本が島国であることに関連しているのかもしれません。ともあれ、日本は間違いなく多民族社会になりつつあり、今さら鎖国時代には戻れないわけですから、未来のためにきちんと向き合わなければならないトピックです。

自分自身も夫が外国人なので、日本は外国人が暮らしにくい国であること(家族が日本人でなければさらに厳しいであろうこと)を知っていたつもりでしたが、この本を通して、知らなかった知るべき(とわたしは思う)現実や課題を多く知りました。とても充実した内容です。

:: :目次 :::
第1章 日本社会で生きる移住者の現実
第2章 日本社会のなかで「移民」はどう変わったか
第3章 移住者の悩みと願い
第4章 移住社会をつくるためのしくみ
第5章 移住者と一緒に理解し、行動してみよう

書店などで見かけましたら、内容ともどもゼヒ目を通してみてください!

ちなみにこの "30の方法" は社会を変える本としてシリーズになっていて、他に「世界から貧しさをなくす 30の方法」「戦争をしなくてすむ世界をつくる 30の方法」「人権で世界を変える 30の方法」「おカネで世界を変える 30の方法」などがあり、難しいと思われがちなテーマをくだいて優しく解説してくれています。また、今このタイミングで(同じく合同出版さんから)発売されている「原発を再稼働させてはいけない4つの理由」というブックレットもわかりやすくておすすめです。

イラストの話しに戻りますが、本の挿絵というのは(小説でもこういったノンフィクションのものでも何でもそうだと推測しますが)絵を描くことそのものよりも、内容からどのシーンをピックアップして、具体的になりすぎずに抽象寄りに表現するかがとても難しかったです。「あまりキッチリ描いた絵は、教科書っぽくなるので避けたい」という指示もあり、根がマジメなので(いやいや、ほんとに)キッチリさを崩すべく子どものおえかき帳をガン見する日々・・・締め切り日にはヘロヘロでした・・・。

(以下、挿絵の一部、お披露目デス)

2012/03/31

go green


3月も終わり。はやいなぁ。

今日は春の嵐。東京は朝からものすごい強風です。少しだけ高台になっている場所にある我が家は特に風のあたりが強く、常々ベランダにマイクロ風車でも取りつけたらかなりの発電してくれるんじゃないかと思って(本気で)検討しているのだけど。でも今日ほどの強風ならマイクロ風車そのものが吹き飛ぶんじゃないかという恐れも・・・。

ずっと前(もう8年くらい前かなぁ)にエルガ/ソーラーネットの桜井さんからソーラーパネルを一枚買って、独立系のインバーターを通して充電とかに細々と使っていたんだけど、2度目に買い替えた蓄電池(カーバッテリー)が切れてからしばらく放置状態になってしまっている。今こそ非常用電源として起動させておくべきなんだけど、国外に越す話もあるので今いち踏み切れないまま。今の家にずっといるなら絶対に発電源にマイクロ風車も加えて組み合わせてインストールしたいなぁ。屋根一面に取り付ければ、家のコンセントにつくった電気を流したり余った分を電力会社へ売電できたりしていいのですが、コスト的に/物理的に集合住宅で無理という人もベランダでちょこっと発電できます(その場合、日常的にそこから電力を賄うというより、ほんの少し補う+非常用電源のためにという感覚です)。うちも集合住宅なので、屋根ソーラーは難しいのだけど、少しでも東電からの電気を買わないために、アンペア下げたり、節電したり、ソーラーランプを使ったり、電気料金の自動引き落としをやめてギリまで払わないとか、ちまちまやっています。いつの日か(その日は近づいていると思うけど)電力会社を選べるようになるまで、しのぎたいと思います。

エルガの桜井さんはずっとずっと長いこと脱原発/自然エネルギー普及に務めてこられた NGO/自然エネルギー屋さんです。以前、仕事の関係で出会い、そのときはじめて「自然エネルギーの普及」という具体的なアプローチで脱原発を目指している方々がいることを知りました。その10年近く前にソーラーパネルを買ったときも、取り付け説明書に『原発の汚い電気を使わないために』と書いてありました。桜井さんは、国内での普及とともに東南アジアなどの途上国の電気がまともに通っていない地域などに「ソーラー発電の作り方/使い方」を伝授して資金援助をするプロジェクトに 90年代から取り組まれています。エルガのホームページでは「自然エネルギーは、人任せになった生活を自分たちの手で取り戻す道具」と定義しています。システムを組む「技術」を輸出して、材料の調達さえアシストすれば、自分たちの手で電気はつくれるのです。貧困の解消に食料や衣料をどかんと与えるのではなくて、働き口をつくり、働く術を教育するのと似ています。未電化地域と比べて考えると、原発事故などは電力を人任せにしすぎた結果。ソーラー発電などは、確かに電気系統などの知識は多少は入りますが、知るとそこまで複雑で特殊なことではないことがわかります。ソーラーは確かに高額なものですが、需要が増え供給量が増えればどんどん価格は下がっていきます(これまでも下がってきています)。

被災地を自然エネルギーで支援する「つながり・ぬくもりプロジェクト」も、エルガやレクスタ(自然エネルギー事業協同組合)の皆さんと ISEP(環境エネルギー政策研究所)が中心となって行われています。インフラが断たれた震災直後は温水や電力の提供を緊急支援し、今は自然エネルギーが復興の柱となるように被災地の雇用創出にまで繋げています。前回の投稿で、熱くひとりブックレビューをしてしまった「ふんばろう東日本支援プロジェクト」もそうですが、プロジェクト目標が具体的であればあるほど効果的な結果が生まれるんですね(当たり前だけれど)。サポートする側もサポートしたくなる。目標が大きすぎるときには、いくつかの小目標をその都度クリアしていくようフェーズ分けした方がいい。そんな理屈は置いといても、とにかくこの「つながり・ぬくもりプロジェクト」は(紹介が1年も遅れてしまいましたが)個人的に応援しています。

なぜ、今この話を思い出したかというと(ちょっとばかし飛ぶけど)脱原発ポスター展という脱原発ポスターのデザインを誰でも投稿できる(そしてご自由に印刷してデモなどでプラカードとして使ってね、という趣旨の)プロジェクトがあるのですが、そこへ昨年提供した "go green" のデザインが、今年の 1月にあった脱原発世界会議に向けて缶バッジをつくるので使わせてもらえませんか?とポスター展の事務局からお尋ねがあり(脱原発会議でもできあがったものを直接頂いていたのですが)今回少し余ったので作者さんへ、ということで、数週間前にたくさん送られてきたので・・・それがきっかけでした。ちなみにこの go green の信号機は「でんきのこれから」リーフレット(初版)の中で使っていたモチーフです。

関連:

2012/03/20

「すんごい仕組み」より抜粋

このひとつ前の投稿で紹介した「人を助けるすんごい仕組み」という本の中から、忘れたくないポイントの書きおこし(超個人的備忘録)です。

◆ 結局は「どう生きるか」という問題
「この悲惨な出来事を肯定することは決してできないけれども、あの出来事があったからこんなふうになれたのだ、と思うことはできる。それが僕らの目指すべき未来なのだ。(略)起きた出来事は変えられないが、出来事の意味は事後的に決まる。」

◆ リミッターを外すしかない
「すべてを失っても前を向こうとしている人がいる。何も失っていない僕らがやる気になれば、何だってできるはずだ(略)未曾有の事態には、未曾有の自分になるしかない。」
「構造構成主義の「方法の原理」によれば、方法の有効性は(1)状況と(2)目的に応じて決まる。そのための有効な方法がなければ、つくればいいのである。」
「最初に『このやり方じゃ無理だな』とか『ラチがあかないな』と直感したことはやりませんが、基本的な方向性として『いける』と確信したら『できるかどうか』という問いは立てません。『無理だ』とか言ってあきらめることは、いつだってできます。だから、それは最後の最後でいいんです。」

◆ 行政の壁、前例主義と取引コスト
「(行政は)断るという結論が先にあって、そのための理由をいろいろとつけているだけだったり、各部署をたらい回しにすることで話が一向に進まない --- なぜそのようなことが起こるのだろうか?(略)(行政が何かをするとなると)「責任」が生じる。前例があれば、何か問題が起きても「前例に従ったまでです」と前例のせいにできるが、ない場合は新たな仕組みを導入した当人までが責任を負うことになる。それを回避するために、前例がないから、と言って拒否することになる。 --- こうして「前例主義」が組織を蝕んでいく。(略)行政や大企業のような保守的になりがちな組織においては(新しい試みについて)周囲の人を説得するための「取引コスト」は膨大なものになる。他方で、新たな試みをしなければ、そうしたコストはかからない。リスクも責任も生じない。そのため、実現する努力をすることなく、やらない理由を探すことになる。

◆ 全員を公平に不幸にする「公平主義」
「有事においては「公平」が方法概念であることを忘れ、それ自体の遵守にとらわれることで、すべてを失った被災者をさらに苦しめることになった。それはこれまでの慣例とその成功体験、そして不公平な扱いに対して過度に敏感な市民からのクレームによって、行政は公平主義に染まってしまったため、と考えられる。(略)そもそも本来の行政の共通の目的は何かと問えば、それは市民を幸せにすることのはずだ。」

◆ 横のラインが社会を変える
(ツイッターについて)「政治って結局世の中を動かすことで、いままでは縦のピラミッドの上の人がパワーで動かすという図式だったと思うんですが、今回初めて横のラインでつながった(略)政治家の人もツイッターに入っている限り、そこでの話題や自分宛の言及(メンション)は気にせざるをえないということ。布のは端切れをもってしまったようなもので、影響を受けざるをえない。これはある意味で直接民主主義に近い形」
「例えば、原発を推進しようという人には絶対に票を入れないようにしよう!と大々的にキャンペーンを打つことで、原発推進なんて用意には言えなくなる。東電は上からのパワーでコントロールしてきたわけですが、横がつながって "市民意思機能体" として違う軸でのパワーを持てば、それにコントロールされることなく、市民が本当に考えていることを実現できる。」「2011年1月以降に、中東や北アフリカで革命が起きたのはおそらく偶然ではない。ツイッターとフェイスブックが統制不可能な横のラインをつなぐインフラとなり、難攻不落の独裁国家がひっくり返ったのである。(略)状況が違えば、いままで有効ではなかった「一人ひとりが声をあげる」という方法が有効になることもある。今までは声をあげても無駄だったかもしれないが、状況が変わったと言っていいだろう。」
「一銭のお金も動いていないのに、みんなが、なんとかしたいという気持ちで動いている」

◆ 強い意志の継承 --- 腐敗した組織に対抗する唯一の希望
「理想主義から入ると、それが崩れたときに、その反動で懐疑論やニヒリズムに陥ってしまうからです。人間も社会も完璧になるということはありえませんから、理想主義はいつか崩れます。だからニーチェは、いわば戦略的ニヒリズムという考えを打ち出します。あえて真理も完全な社会もないというニヒリズムを出発点とすることで、それでもいまよりはマシにすることはできる、といった形で、最終的にニヒリズムに回収されないようにしたわけです。時間を止めて固定的に考えると、一人ひとりの力はあまりに小さく無意味なように感じてしまいますが、時間というファクターを入れて考えるとそんなことはないとわかります。僕らですべてを完成させる必要はないんです。(略)僕らが少しでも進めておけば、そこを出発点として、子どもたちが、次の世代がさらに進めてくれる。」

◆ 5% にこだわらず、95% のところで迅速に動く
「税金も使っていなければ、給料ももらえない、守るものなんて、ないんですね。被災者支援のプロジェクトなのに、ごく一部の批判を気にして、助けられるたくさんの人たちへの支援をやめてしまったら、某行政と同じになる。(略)どんなことをしていても批判をする人はいますし、失敗する可能性もある。だから、常に完璧を目指すのではなく『5% は大目に見よう』と。」
「人間は 95% の人が賞賛してくれても、5人批判する人がいると、批判する人の意見にフォーカスし、20倍くらいの重みづけをしてしまう。そうすると批判者の意見に引きずられて、意思決定を謝ってしまうのだ。」

◆ 目的を常に共有
「目的を共有することは、活動が目的からブレないためにも重要となる。これは当たり前のことだが、実際にそれを徹底できることは稀と言っていい。」

◆ クジラより小魚の群れになろう
「クジラは巨大な図体ゆえに容易に方向転換することはできない。しかし小魚の群れなら、一瞬で方向を変えられる。僕らは一人ひとりは小さな魚でも、群れをなすことで、クジラに匹敵する機能を備えることができる。しかも、刻々と変化する被災地においては、魚の群れのようにときにまとまり、ときには細かく分散して、融通無碍に対応できるほうが、機能するのだ。」
※ まさにスイミー!わたしも昨年の春に「今こそわたしたちはスイミーの群れに!」と思い、その思いを込めてツイッターのアイコンをスイミーにしたのでした(思いっきし余談)。


2012/03/19

「人を助けるすんごい仕組み」

311 の国会包囲のヒューマンチェーンの抗議行動の帰りに、一冊の本を購入しました。ものすごく疲れていたのだけど、この日に買わなければならないと、ぐったりした体にムチ打ちつつ本屋へ。

「ふんばろう東日本支援プロジェクト」という全ボランティア(組織という組織はない有志の集まり)の被災地支援のプロジェクトについて、その代表である西條剛央さん(早稲田大学大学院 MBA 専任講師)が書かれた
というノンフィクション本。311 の数日前にとあるビジネスの行動心理学関係のメールマガジンで紹介されていたのに遭遇して、強く引きこまれました。糸井重里さんの帯のコメントの通り、震災の状況だけでなくあらゆる仕事の場で、間違いなく役に立つ本です。わたしが読まなければと思い立ったのは、先日も書いたように福島・原発・放射能の問題は日々考えてきたけれど、津波被災地のことはよく知らないと気づき、知りたいと思ったことと、上記のメルマガ内での内容の紹介で「凄まじい被災地の描写に対して、いちいち感傷に浸っていられないほどのものすごい「行動の集積」によって不可能そうなことを可能にしていく」という一行に、詳細をとても知りたくなったからです。わたし自身も感じていた、行政の危機対応のスピード感のなさや、団体・組織が大きくなればなるほど遅くなる決断や動き。それらの対極で、動きの鈍い行政や団体をすっとばして支援者と被支援者を直接つないで成功したというアクション。最近、西條さんはこの迅速で効果的なプロジェクトの結果を評価されて、日本赤十字社に助言を行う立場に。

その、本を紹介されたメルマガの中での「世の中のほとんどの "言い訳がついつい口から出てしまう人" はヒマなのだ(略)ヒマだから決定しないという決断をくだし、面倒なことは先送りにして、後から指摘されると無意識のうちに言い訳をする」という一文も「あ、自分やん」ということでギクっとしました。そして「本書で紹介される、プロジェクトに関わる人たちに、誰一人としてヒマな人はでてきません」と。(偶然出会ったこのメルマガ(上記リンク)も結構必読なのでご一読ください)

この本は 311 のあの日からはじまり、仙台で叔父さんを亡くされた著者が南三陸町に行き、プロジェクトを立ち上げていく過程を描きながら、有事にこそ有効な「構造構成主義」の考え方がポイントとして出てきます。カタそうですが、その時々の「状況」「目的」を把握し、それに合わせて方法論を決めるということ(聞いた感じ当たり前の)、それをしっかり行うだけ。いろんなことに通じると思うのだけど、目的って段々ブレていくんですよね(だから確認は大事)。こういったヒントや、昨今のソーシャルネットワークを使って具体的に人々が繋がっていった/繋げていった支援の "すんごい" プロセス("すんごい" ってホント糸井さんぽいなぁ)。一気に点が線となった、プロジェクトに関わった本当に多くの人たち。そして津波の爪痕、メディアが伝えなかったリアルな惨状、奪われかけたいのち、奪われたいのち、それを乗り越えて強く生きている方々の暮らし、気持ちが出てきます。そしてずっと原発のことはずっと出てこないのですが、最後の最後に【原発問題の解き方と答え】という項があり「原発は是か非か」ではなく、双方の関心を織り込む形で「原発をなくしても問題が生じないようにするには、どのようにすればいいか?といった形に問い方を根本的に変えるという点が重要、などと述べられていて、そののちに、様々な現実的な状況を鑑みて、原発に頼らない社会へ進むべきと(というか「答えは出てしまった」と)書かれていました。また「個々人レベルでは誰もがおかしいと思っているのに、一部の利権などから社会や組織全体は反対方向に進んでしまうという現象は、組織が死に至る病」だと。これを聞くとまた戦時中の日本政府とかぶるなぁ。

驚く数のプロジェクトを行われた西條さんが、最後に「特別なことは必要ない。本当は絶対によくないと思っていることはせず、こうすれば社会はよくなるのにと思っていることをするだけで、僕らは確実に幸せな社会に近づいていくことができる」/「一人ひとりの力が合わさることで、世の中は変えられるんだということを広めていきたい。それが子どもたちのための未来をつくる、僕らの役目だと思っている」と言われると、エネルギーをもらえます。

この本の印税は全額復興支援へ使われるそうです。今一番おすすめの本です。

(本のページの端っこを沢山折りすぎてしまったために、かさが増えてしまった・・・。忘れたくないセンテンスを書き出しておきたいのだけど、毎回「一回の投稿長すぎ」というクレームもある(?)ので、それは次回に。)

ふんばろう東日本プロジェクト "誰でもできる復興支援はここにある" は継続中です。

【 3/19 追記 】この本を読んだ理由のひとつに、津波被災地のことをもう少し知りたいというのがありました。その点でも、この本から知ったことは多かったのですが、先日「母を捜して -陸前高田から - 」というとあるカメラマンさんの実話を記録したサイトを見つけ、そこでも津波で家族を失った方々のリアルな日常が綴られていて衝撃を受けました。ここに共有したいと思います。綴られているショッキングな出来事が彼だけでなく何千という方々に同時に起こったということが、いまだにうまく想像できません。ただ、知ることはできるから。

2012/03/15

最大のプロパガンダ vs デモ

核問題を追い続けているドキュメンタリー映画監督の鎌仲ひとみ監督が「国の最大のプロパガンダは《何をやっても、どうせ社会は変わらない》と信じ込ませることだ」と発言されているのをどこかで読みました。本当にそうだと思う。しかしながら、原発事故以降、原発はいらないと声をあげ始めた、これまで運動に携わっていなかった普通の人々を見ていると、今までのぬるま湯だった日本がやっと沸々と適正温度になったかと思います。以前、環境保護団体で勤めていたときに、あまりの日本での活動のやりにくさ(人々の理解の得にくさ、社会問題を自分のことだと思わない当事者意識の低さ)に「日本人はアパシー(無関心)の塊だ」と他国の同僚にぼやくと、どこの国も無関心層はいるよと言っていたけれど、日本社会の成熟度の低さは格別という思いは変わらなかった・・・今も変わっていないのだけど、311 以降絶え間なく続いているデモを見ていると(参加していると)、今こそもしかしたら日本は大人になれるのかもしれないと僅かな光が見えます。


これまで日本でも革命を叫んだ運動がありました。60s の学生運動がポシャったり、チェルノブイリの事故が発端の反核運動も長続きしなかった関係で、歴史的に市民運動全般をマイナーで力のないものとして扱う(んなことやったってどうせダメだよ的な)流れがあります。あと、"打倒"とか "阻止" とか圧力的な言葉連呼で鉢巻き巻いちゃったり、内ゲバが起きた過去の印象で「デモは怖い」といったネガティブイメージを持つひともいます(それを持ち出してデモに来ないような人は完全に言い訳だと思うんだけどね)。今の脱原発運動が一過性のブームなのか、それは何年後かに振り返ってみないとわからないけれど、これまでと違う何かを感じるのは、Twitter やフェイスブックなどのインターネットを通した新しいネットワーキングが追い風になって吹き続けていることです(これは改めて言うことでもないのだけど)。先のエジプトの市民革命もそういった新しいツールを通してのネットワークの影響が強みとなり、それに加えて実世界での口コミなどが加わって伝播していったと聞きます。

今現在、首都圏で行われているデモはかなり多様化してきているのですが、そのカラーに注目して、いくつか記録しておきます。様々なデモといっても単に主催が違うというだけでなく、同じ最終目標「脱原発」を掲げながらもそれぞれ微妙にアプローチが違うのです。昔から反原発運動をしている原水禁などの古参には何ら変わった動きはないのだけど、感情的かつ戦略的に、常に模索/変化しながら活発に動いている中学三年生のような、熱くて正しくて悩み多きデモは本当に興味深い・・・その1つは Twitter から繋がった人々で興されたその名もツイッターデモ Twitnonukes です。主に東京では渋谷・原宿エリアで行われることが多いデモですが、どこでも人を集めるツールとなれる Twitter が軸なので、全国各地で(それぞれ違う人が主催で)行われてきています。デモ自体をまとめるために誰かしら中心的メンバーはいるわけですが、リーダーというリーダーをわざと設置せず、Twitter のフォロー関係でやんわりとつながった個人の集合体としてデモを行っています。この「やんわり」がポイント。あくまでインディビジュアルの集合体であり、なんのイデオロギーもなく既存のいかなる団体が組織するものでもない、デモは「箱」であり「無色」であれ!その中で個々人がシンプルに主張をすべき、という主義。よって、労組左派の幟があったり右翼の日章旗があったりするのはご遠慮願いたく、「脱原発」のたった一点で、プラカードだけにしてほしいと。関係ないもん持ち込まず「原発をなくす」シングルイシューで集おうよ(=そしたらイデオロギー付きの運動に嫌悪感を持つ層もすんなり入り込めるから、活動する人々の数が増えるよ)と。これは目的がブレがちな運動というものに「なんのためにやってんだ」と常につきつけてくれる真っ当なポリシーだと思います。「デモのためのデモにならないこと」「自己満足にならないこと」これらのスタンスにはとても共感。こじんまりとしているけれど、柔らかな印象の中に力強い怒りを持つ、新しくも正統なデモです(とわたしは思う)。

そして、間口を多くのひとに開いているのは同じであるのに、右も左も自民も共産もなんでもかんでも全部ウェルカム!楽しくなければ人も動かないぜ!というもんのすごいローカルデモが杉並でありました。2/19 に杉並で行われた有象無象デモです。ローカルと言っても全国各地から 6000人ほどの参加があったとのことで(わたしも行ったけど)かなりの賑わいでした。(何を隠そうわたしも 10年ほど好んで暮らしてた)杉並は元々市民運動が盛んでリベラルな風潮がありました。昨年 4月に高円寺で勃発した「素人の乱」の大きな反原発デモの流れをくむもので、完全にカーニバル(脱原発替え歌カラオケカーが出たり、酒を売りながら練り歩く移動式バーがあったり、お菓子配ってたり、最後には解散地点でフォークダンスも踊ってた)で、とんでもないそのカオスさを魅力としていました。それを邪道(?)で真摯でないと批判する声もあったけれど、脱原発に関わる入り口としてそれが入りやすいと感じる人も多くいると思うし、ニーズがある限りそれもアリだろうと思いました。この杉並デモのはじけ方は本当にすごかったし、あれを越す「寛容さ」を持つデモは他にはないでしょう。

そして、このデモの特徴は何といっても「ローカル」であること。地元をガツンと巻き込んでいるので、元々つながりのある高円寺・阿佐ヶ谷(商店街が多い)エリアの商工会やら市議やら住民同士が運営に関わって盛り上げているのです。デモの実行委員は杉並区民有志。沿道でトイレを貸し出すサインを掲げるおばちゃんも見かけたし。最後には商店街の飲み屋などでデモに行った人は割引になる「デモ割」なるものも発生していました・・・もう、わけわかんない。この大風呂敷を広げた話題性に加えて、PR がとてもうまく、早々から著名人(杉並にまつわる有名人から関係ない人まで)を賛同人にしたり、彼らの Twitter で言及してもらったりと告知に余念がありませんでした。ちなみに「有象無象(の集団)」のコピーは、杉並在住のドイツ文学者で翻訳家の池田香代子さんが名付け親のようです。

杉並デモも Twitter デモも「小異を捨てて大同につけ」という点では同じ。イデオロギーのあるデモではどうしても参加者が決まってしまうため、組織動員でない、器に徹するデモの重要性が感じられます。左寄りのものと思われていたデモも、今では右デモ(美しき日本の山河が汚された、国民の健康が損なわれたことに怒る民族派右翼の方々による「右から考える」脱原発運動)もあるくらいな昨今。それはそれで必要とするひとがある限り、在っていいわけで。

かつて、こんなにデモにバラエティがあったでしょうか。わたしはそれが希望だと思うのです。先日の 311 に日比谷で行った大きなデモ「東京大行進」をオーガナイズしたのは、首都圏反原発連合というこの様々なデモ母体の集合体でした。手を取るべきところは繋いで一緒にやっているわけです。

同じ脱原発を志すひとたちでも(以上はデモの話でしたが)細かいことになってくると、意見の相違が出てきて仲間割れしがちです。真剣であれば真剣であるほど「こうすべき」が増えて、内ゲバになる。それぞれの角度ややり方の尊重が大事ということにつきるわけですが、これをわたしは「役割分担」とよく呼んでいます。意見の違いというと叩き合いになるけれど、大目標を達成するための役割分担だと思えば。初級のソフトなデモも上級のハードコアなデモも、需要はある。内ゲバは原発を推進する側の思うつぼ(脱原発運動を連帯させないために推進派が仲を割らせるスパイを送り込んでいるなんて話もちらっと聞いたことあるけど、どこに送ったんだか)そんなことしてる暇ないし。炭水化物を摂取するのにごはんで摂るか、うどんか、パンで摂るかみたいなもんで、「炭水化物が胃に入る」目的さえ達成されれば、自分の好きなやり方でいけばいいと思う。他人のやり方や好みを無闇に否定するのはよくない。そっちはカロリー高いからこっちがいいんじゃない?とか事実を比べる議論はあっていいと思うけれど。

デモ分野内の「役割分担」もそうだけれど、脱原発運動全体にも役割分担はあります。自治体に訴える人、国に訴える人、電力会社を集中的につつく人、地方でやる人、東京でやる人、自然エネルギーの拡大からやる人、PPS で脱東電を広める人、原発のコストを数える人、放射能の拡散予測をする人、原発の輸出を叩くひと etc.・・・この「役割」の多様さとそれが日本全国各地で始動していることを実感したのが 1月に横浜で行われた脱原発世界会議(会議というかアクション見本市だった)。それだけでとても意味があったイベントでした。様々なアングルからのアクションたちはお互いを受入れ、ヨコ同士でつつき合わず、常に前に向いて進まないといけない。

昨年末にマガジン9条の企画で聞いたイルコモンズさんと素人の乱の松本哉さんのトークの中で、デモに盛んに参加されているイルコモンズさんが言われていて共感したのは「デモだけでは何も変わらない。デモだけで社会が変わったらその社会はアブナイかも。いろいろな運動(デモあり、不買運動あり、選挙あり、署名あり)とアクションの相互作用、セットで、変化が起きる。どれも必要。ひとつのアクションに成果を期待しすぎるのは危険。すぐに成果がでないと諦めやすくなるから。」と。そして「デモで戦争が止まったことはないんです。だけども戦争を拡大することを防いでいるんです」と。デモで原発が止まるかといえば、止まらないのかもしれません。でもそれが民衆に与えられた数少ない抗議手段であり、いくらか効力が(それがどのくらいかは未知なのだけれど)あり、目標に近づくための役割を果たしているとわたしは思うので、これからも足を運びます。

残念なのは、これはおそらくわたし自身が運動の内側にいる人間であるから、様々なムーブメントが活発だと思っているのであって、外側のフツウに運動と無縁に毎日を送っている人から見れば何も起きていないに等しいのかもしれないということ。その垣根は、いつとれるのか。日本のメディアが改心してくれれば近道になるとは思うけれど。

《余談》
日本のデモの警官配備はまだときに異常な数で余計な厳しさも見られるけど、最近はお巡りさんも慣れてきて落ち着いてきたみたい。警官隊見てアドレナリン出て歯向かいたくなっちゃってるのは全共闘時代再燃のおじさまたちだけの模様。ちょっとした笑い話で、警察車両の運転席に『デモいこ』という 311以降沸き上がった様々なデモについてのまとめ/ガイド本が置かれていた(お巡りさん勉強中)とかいないとか。昨年の春頃は不当逮捕等が起こってかなり緊迫していましたが、あれも日本の市民がこれまでどれだけプロテストをしてこなかったかという現れだと思う(=警察が暴動とかにまっっったく慣れていなくて過剰反応してしまう)ので、今やデモもやっと日本に浸透してきたといえるのかな。お巡りさんも家ではお父さんだったりするわけだし、密かに脱原発の意思を持つ方も結構いるようです。

2012/03/11

今日の日に

被災地の方たちの携帯電話のフォトアルバムほど生々しく、愛おしく、強烈で切ない記録はないだろうと想像するのです。見たことはないけれど、どんな報道カメラが撮ったものよりも、きっと。3/11 の前からスクロールして、その日をまたぐと、いきなり別世界のフィクションかと見まがう焼け野原のような風景であったり、前日まで頻繁に写っていたひとがいきなりまったく現れなくなったり・・・。

今朝起きてそんなことを思いながら、自分の iphone のフォトアルバムを流し見ていると、去年の 3月で手が止まりました。ひな祭りの日に作った手鞠寿司の写真の次は、まったくからっぽになったスーパーの即席ラーメンの陳列棚。その次は KLM(オランダ航空)の旅客機の水色の機体の写真 − 避難をする日の成田空港。あの一週間の再現ドラマが脳内再生される・・・寝室で子どもに布団を頭から被せながら、ブンブン左右に揺れるとなりのアパートの屋根の貯水タンクを見ていたこと。家の中で一番支柱が太そうな壁の脇に子どもを抱いて数時間座りっぱなしで、繰り返し鳴る地震速報の音を聞いていたこと。それから朝から晩までテレビをつけっぱなしにして、原発事故の状況に一喜一憂しながら輪番停電の茶番に振り回され、気休めでもいいからヨウ素をとトロロ昆布を買い込み、夜は余震を恐れて外着を着て寝ること数日。避難先に飛ぶ機内では『原発肉薄、30トン放水』という見出しの前日のヘリからの落水を伝える新聞を見ながら、「わたしだけ逃げてきた」というような罪悪感にも似たやるせなさ(?形容しにくい)と空しさのような感情でしばらく泣いていた。このタイミングで出国して、果たして家に、日本にまた戻れるんだろうかという、今まで感じたことのない鉛のように重い不安感が拭えず、無力感を感じていた。

そして日本の外に出てから、自分を落ち着かせようとこのブログを書き始める。寝ずに必死にネットで情報をかき集めながら、自分にできることはなんだろうと・・・。

いろいろと知るにつれ、比較すればいいというものではないのだけれど「被災者の方に比べれば、自分はマシだ。何をこんなことで凹んだり文句を垂れてんだ。」という、自分に起こった物事を捉えるとき "被災者軸" が生まれた。この前インドに行ってからも "インド軸" ができたけど、それに少し似ている。でも、インドの体験が一時的な「旅」であったように、そのようなアングルを持ったとしても被災地を解りきれてはいない。先の投稿でも書いたけれど、そういう知ったようなことを言って実はよく知らないという事実に対しても(誰にも責められていないけど)苦しくなる・・・。だから、冒頭に書いた自分の体験なんぞは、書いているうちになんだか申し訳なくなってくるのだけど。

そんなことを思いながら、黒いリボンを安全ピンでとめて簡易の喪章としてカバンに付けた。

- - - - - -

昨日の予告通り、今日は日比谷公園の集会 "Peace on Earth"とそのあとの国会の包囲(人間の鎖)に行きました。日記風になってしまうけれど今日の出来事を:
昼過ぎに日比谷公園に着くと予想を超える人の数に驚く。ステージでは女の子が歌を歌っていた。アースガーデンがオーガナイズしているだけあってアースデイで見かけるエコ・コンシャスな店舗や NGO のブースが並び、晴天の噴水広場を囲んで、なにかの楽しい行事のようにも見えた。つくってきたお弁当を膝に広げて子どもと食べていると、共同通信の記者にインタビューされ、「政府には失望しているけど、国を責めても、民度にあった政治家しか出ないわけで、民度にあった国にしかならないわけで、わたしたちが変わらないと国も変わらない」というような生意気な意見を発言してみた(でもこれをフォローするような「政治を軽蔑する人は、人から軽蔑されるような政治しかつくれない」という寺山修司の言葉の引用をさっき Twitter で見て、やっぱそうだよな、とひとりで確信)。そして最後に「これから希望が持てると思うことはなにか?」という質問・・・少し考えてから「この場所にいる、大勢のひとたちじゃないですか」と答えた。311 を機に立ち上がり、声をあげているひとたち。それ以外にポジティブなものはなにも見つからない。去り際に「メディアもしっかりね」と目を見て言うと、若い記者さんは少したじろいだように見えた。

そのあと事件が起こる。日比谷公園から出発するデモの集合場所付近に向かい、その近くのお店のブースの工作(麻の端切れに絵を書く)ワークショップをうちの子(4歳)がやりたいというので、席に座らせ、ほんの少しだけ隣の店を見てきて戻ったら・・・いない。
うちの子がいない!!さーーーっと血の気が引く。
その日の日比谷公園は数千人(主催者発表は参加者約1万人)。園内びっしりの人だ。ブースの女性も詰め寄るも、どこかに走って行っちゃった、と。人生で一番のパニック。20分ほどだったか(どれくらい経ったか記憶にない)大声で子どもの名前を叫び続けながら、まったく恥も外聞もなく、公園中を走り回る。あまりの取り乱しぶりに、イベントの事務局の方が(わたしの大声を聞いて)「迷子としてこちらでも動員して探しますので」と子どもの特徴と電話番号を控えてくれ、見ず知らずのおばさんや同年代の母親層の女性も「わたしもいっしょに探します」と何人か話しかけてくれた(日本も捨てたものではない)。デモで待ち合わせていた友人にも涙声で電話をして捜索に協力してもらう。

子どもが惹かれていきそうな遊び系ブースを周り、遊具のあるエリアを確認して息を切らして噴水エリアに戻った瞬間 2:46 になり「黙祷」のアナウンス。そうだよ、今日はこのために来たのではないか。なんで今わたしは別のことを必死に祈りながら走っているんだろう。さすがにこのサイレンスの中で子どもの名前を叫べず、目をつむりながらひたすら走る。一カ所、お弁当を食べたあとに立ち寄った顔見知りのいる NGO のブースがあったのを思い出し、人ごみをくぐりぬける時間を惜しんで、そのブースの裏にまわり込んでテントをまくりあげると、うちの子のコートのフードがちらっと見えた。・・・脱力。

名前を叫んで、泣きながら叱る(泣いてるのはわたしだけ)その剣幕に子どもが泣き始める。そこは、はぐれた場所から子どもの足ではかなり距離があったので、まさかそこまでひとりで行っていないだろうと思っていた。その帰巣本能と強さには関心するけども!そこでうちの子と遊んでくれていた知人によると、なにも動揺した様子がないのでてっきりわたしがここに居るようにと指示をしたのだと思ったと。それで、黙祷の時間にはイスに腰掛けて黙祷もしていたのだそうだ。こっちが血相抱えて走り回っているときに!!そりゃ黙祷したのは褒めたいけども!

日比谷公園中がうちの子の名前を知ることになったとさ。

なぜこの迷子事件を細々と書いたかというと(こんなことを気軽に言うのは不謹慎だと思うけれど)311 という日もあいまって、探しまわっている間中、なんだか子どもの喪失疑似体験みたいな感じがしたのだ。つい昨日、子どもの喪失について書いたばかりだったし。ただ、どうしようどうしよう、というのに加えて、今日という日にこれを経験していることがすごく異様で気持ちが悪かった。頭の中がいろいろなことでぐちゃぐちゃになって、精神的にものすごい消耗だった。今日は朝から元々そんなに明るい気分じゃなかったのに、それに加えてこれ、ですよ。今思い出しても胃が痛くなる。

その激動の再会のあと(デモに出る前からげっそり憔悴・・・)日比谷から銀座を貫く長距離デモ(脱原発東京大行進)を歩ききり、そのあと夕暮れの国会議事堂包囲まで行きました。我が子よ、よくやった。すんません、迷子事件の衝撃のせいでメイン行事がそんな2行の報告に・・・。

国会の人間の鎖もすごい人で、これも1万人超の参加があったと。国会前(といっても向いの歩道)は二重三重の包囲になっていました。オーガナイズされた方々、ご苦労さまでした。人々がキャンドルを掲げてつながる瞬間に、これまた「おしっこ行きたい」・・・小雨がぱらつく中、国会議事堂前駅のトイレ目指して、車道をお巡りさんと一緒に疾走。最後の首相官邸への申し入れまでは行けなかったけど、そんなこんなありながらもヒューマンチェーンまでできて本当によかった。もっとこういったダイレクトアクションに参加してくれる人たちが増えればいいのだけど。国会前のあの人々は、人数といい熱気といい希望が持てる気がしました。お昼のインタビューへの答えは間違ってなかったかな。

帰り道、ぐったりしながら本屋に立ち寄りました。どうしても今日の日に買って読み始めたい本があったから。津波被災地と救援について、そしてアクション(人々の起こす行動・活動)についてヒントがもらえそうな本です。早く読んでここに報告したいと思っています。

次は、その本とは別に、これまでのデモについて、あれこれまとめます。

【 追記 3/12 】
Human Chain - 人間の鎖 -(写真多数)/ 脱原発スモールアクション

各国と全国各地で 11日に行われた原発に反対する集会は、東京で合計 45000人、福島で 16000人、京都や大阪でも各 6-8000人、福岡で計6000人、札幌や広島、高崎、神戸などで各 2000人など(いずれも主催者発表)日本全国で合わせて 10万人を超えるアクションがあったとのことです。

2012/03/10

そして1年

明日で 311 から 1年。

あれから、みなさんの 364日はどのような日々だったでしょうか。住むところや、それぞれの環境や興味によっては、他の 1年となんら変わらない年月だったという方もいるかもしれません。そして明日。ホワイトデー前のただの週末としてショッピングを楽しむ方もいるだろうし、家族の命日を向かえる方も多くおられます。

書き留めておきたいことが多すぎて、何からスタートしていいのかわからないけれど、とりあえず、明日どのように過ごすかについてのことと、それにまつわる話から始めます。

個人的に脱原発に取り組んでいる NGO から仕事を受けることが多く、自分自身も活動に10年ほど関わっているため、311以降、その環境の中でできる範囲の活動をしてきました。夫も報道関連の仕事をしているので、昨年から我が家では「原発事故特需」的な現象が起きて、皮肉にも仕事が忙しくなりました。それが脱原発に多少は寄与するものなのでまだいいといえばいいのですが・・・。なので一年目が近づくに連れて、ここ数週間はとてもバタバタしていて、夫も被災地に頻繁に行きました。彼からの生々しい報告を聞くうちに、一年も経ってから、津波の被災者の方たちのことを知ろうとしてこなかった自分に気づきました。原発と放射能の問題、一束に被災地と言っても福島の問題は、ほぼ毎日向きあわない日はなかったけれど、津波被災地のことは、恥ずかしながらここ数日で詳しく現状を知ったと言っていいほどです。「被災地から遠く離れるほど、人々の関心は津波から放射能になる」とどこかの雑誌にも書いてあったし、「東京と被災地の隔たりを見守るということ」についてのブログ記事(おすすめします)も先日読み、考え込んでいました。まだ知りきれていないことの方が多いだろうし、被災地の方々の心情については、本当にわかることはできないと思います。

特に人の死に関する話は本当に壮絶です。夫が直に撮影でお会いした方は、津波の被害が酷かった町のお母さんで、小学生のお子さんを亡くされたのだけれど、遺体が長いこと見つからず、自ら重機を運転する資格を取って瓦礫を掘り起こして捜索を続けた末、やっと川辺でお子さんの遺体を発見したそうです。川辺で体の一部のない遺体を見つけたときの話の中で「娘はあんな冷たいところにいて、さぞ寒かっただろうと思う」とつぶやかれ、うちの夫はカメラのファインダーの後ろでぼろぼろと泣いてしまったと。そして別の町では、幼稚園バスが津波で流され、園児たちの遺体が見つからずに、お母さんのグループが遺品の捜索をいまだにしているという話。昨日ラジオで聞いたのは、生まれてすぐの母子が津波で病院内で亡くなり、遺体で見つかったときにはお母さんが赤ちゃんを包み込んで守るようにして横たわっていたと。その父親は、数ヶ月後に出生届を出しに役所に行かれたのだそうです。出生届けを出さなければ埋葬許可が下りないために、亡くなった赤ちゃんの出生届を。耳を塞ぎたくなるような逸話だと思います。様々な信じがたい喪失が幾千と起こり(ここに上げたのもごく一部ですが)わたしが知ったのはその欠片にも過ぎません。

中でも子どもの話がやはり頭から離れません。夫とも話したのだけれど、自分に子どもができてからは、やはり子どもが犠牲になった話を聞くと、自らの子どもに置き換えてしまうために凄まじく切ない(切ないという言葉が弱いけど、一番強い言葉が見つかりません)。そしてまた、無情にも自分の子どもでなくてよかったと次の瞬間思ってしまい、つらくなります。誰の死も親しい人にはつらいけれど、子どもの死ほど悲痛なものはないのは、子どもには未来があるから。

未来。

私事を挟ませてもらうと、わたしは幼くして母親を亡くしているのですが、思い出すのは、そのときの祖母の憔悴ぶりです。子どもである自分もダメージはあったと思うけれど(はっきりいってそのときの感情をあまり覚えていない)今思うと、親を亡くすよりも我が子を亡くした方がその打ちのめされ様が違うんだなと。単純に比べることではないというのはわかっていますが、やはりそれは「これから」がどれだけあるかの話なのだと思います。親を亡くした子は、前途多難であろうが未来があるけれど、子どもを亡くした親にはロスしかない。未来を奪われたからです。子どもの未来と、自分自身の未来の一部を。

ここでまた、原発の話になって申し訳ないのだけど、わたしは、亡くなった子どもたちと親御さんたちに心を寄せながらも、これからを生きる、いま生きている子どもたちの未来の社会のために、できることをしたいと強く思います。そして、こんなときだけ「被災者」の方に立つように聞こえるかもしれないけれど、わたしは「原発さえなければ」と書いて自殺された農家の方の話が忘れられないし、原発事故がなければ東北全体の復興はもっと迅速に進み、津波直後の救助にも注力できたはずで、それで救えた命もあっただろうと思うから。自然災害に次ぐ人災は、再発を防ごうと思えば防げるのに。・・・なので、明日は喪章をつけて、日比谷公園での集い、黙祷ののちに日比谷公園から出るデモと、そのあとの国会の包囲(人間の鎖)に行きます。世界各国でも福島追悼・脱原発のアクションが行われる模様です。フランスではかなり大規模なヒューマンチェーン(人間の鎖)が行われるそうようですね。明日ご予定のない方、国会包囲、いっしょにいかがですか。

そのほか、全国で様々な催しが行われます。脱原発に関するアクション、追悼の集い、被災地支援のチャリティーイベント etc. 。原発関連のアクションは 3/11 には不謹慎だというような意見が出ていると Twitter などで目にしましたが、わたしはそうは思いません。亡くなった方たちの追悼と、脱原発は対立する概念ではないと思うから。Twitter の人気キャラ、もんじゅくんの言葉を借りると、『追悼は、未来を生きていくために、たしかにあの日までともに生きていたひとたちを想ってしのぶこと。脱原発は、未来のために、これから生まれてくるひとのために、よりよい世界を用意するよ、と誓うこと。』
・・・双方ともよりよい未来に向けて歩むため。

最後に「追悼・対・政治的なアクション」に関連して、とあるブログで見た、責任についての話をして終わりにしたいと思います。中盤で、広島原爆の追悼碑に刻まれた「安らかに眠ってください、過ちは繰り返しませんから」の文言についてのくだりがとても興味深かったので引用します。
《 脱原発の学習会で、「(脱原発を決めた)ドイツと日本の違いは何でしょうか?」との質問が出た。おそらく、それは「責任の取り方が違ったからだ」と思ったからそう答えた。ナチスの犯罪を謝罪し、犠牲になったユダヤの人々にちゃんと補償をしたのがドイツの戦後。一方、日本は「一億総懺悔」で、「過ちは繰り返しませんから」と石碑に刻む。何という曖昧さ、そして主語のない文章!今回の原発事故もそうだ。「がんばろう福島」「負けないっぺ福島」。そんな標語で生活は補償されるのか?流された家は帰ってくるのか?ローンは、仕事は?町に掛ける看板は「東電よ、きちんと補償せよ」「政府は責任を持って故郷を復興させよ」であるべきではないか。エジプトやリビアで、独裁者を打倒する若者たちの運動を目の当たりにしてきた。彼らは独裁者に偏る富、理不尽な格差、政治的自由などを求めて、街頭に繰り出し、デモをして、とうとうその独裁者を打倒してしまった。つまり中東の若者たちは敵を見誤らなかった。貧困層と中間層が団結し、「生活を苦しめている本当の敵」に向かっていった。》

それぞれの静かでピュアな「追悼」や本当の「絆」が、誰かの策略のもとに乱用され、脱原発や被災地復興の中でターゲットを見誤らせる結果となることは絶対に避けたい。わたしはわたしの追悼をしながら、子どもの未来のために、ぶれずに(敵を見誤らず)止むなく行動していきます。

長文、最後まで読んでくださった方がいらしたのなら、どうもありがとうございます。
もし被災された方が読まれ、気分を害されるような記述がありましたら、気が回らなかったことをここにお詫びします(気づかず、そういったことが多々あるのだと思うので)。

イベント情報:
311 脱原発 - 祈りと一歩 - (全国アクションマップ)

関連リンク:
・「被ばくすることが仕事」という原発の現場をリアルに知ることができるインタビュー。反原発運動と労働者、福島と東京の乖離、沖縄基地問題との通底などにも触れています。「原発収束作業の現場から:ある労働問題活動家の報告」(長いけど必読です)
「1000年後の未来に伝えたい 311の記録」(これも以上に長いけど・・・メモとして)
「ママは原発いりません」思いをきいてください(福島の現状)

2012/02/08

でんこれ+あれこれ

珍しく my works のお知らせです。もちろんエネルギー問題絡んでますけど。毎日ゲンパツゲンパツよくイヤにならないなぁと(言われたことないけど)言われそうですが、もうライフワークなので堪忍してや。わたしも別に趣味でやっているわけではないんですけどね。
以前もご紹介しましたが、昨年に環境 NGO の依頼でライティングとデザインをしたリーフレット「でんきのほんと・でんきのこれから」(通称でんこれ)シリーズの「でんきのこれから Q&A」に 2012 改訂版ができました。
現物がほしいという方は、グリーンピースからも請求できますし、わたしの twitter アカウントへメッセージいただければ、わたしの方からも必要な部数を送付できます。

内容は、これから日本のでんきをどうしていったらいいのか?が QA 形式にまとめられている、今後のわたしたちのでんきについてポジティブになれる、エネルギー問題入門編といったところです。「原発なくてもいけるらしいよ」と、エネルギー問題に興味のないひとにちょっと教えてあげたいときに助けてくれるお役立ちアイテムです。お話しのきっかけにどうぞ。

A4 四つ折りなので、スペースの関係で日本の豊かな自然エネルギーのポテンシャルについては語りきれなかったのですが、それはグリーンピースの energy [r]evolution というレポートにまとめられています。ISEP(環境エネルギー政策研究所) でも「自然エネルギーと省エネで原発なしでもOK 情報」を提示してくれています。どれも絵空事でも理想でもなく、現実的で論理的な試算です。「原発がなかったら経済はひっ迫する」などと、中身のよくわからないケイザイを心配している経済界のおっさんたちは「代替案もなく脱原発などとぬかすな」と言いますが、代替案はあります。経済成長ってどこまで成長したら気がすむの?ってとこも見直した方がいいわけですが(ケイザイの中身って人間の暮らしじゃないのか?)。

脱線しましたが、今現在(2012.2.8)国内で稼働している原発は、たった 3基!事故や点検などで止まっていて、残りの 3基も 4月末までにすべて止まる予定です。一方で、原発が 1基も動いていない日を前に、停止中の原発を再稼働させる動きも進められつつあります。ストレステストは妥当(だから再稼働していいよ)という茶番の審議会が、大事故の責任も取っていない原子力保安院と金で買われた推進の審議委員だけで粛々と行われています。福島の事故調査結果もまともに出てきていないのに。再稼働への流れは絶対に阻止しなければいけません。

日本に所狭しとひしめいていた 54基もある原発が 9割以上動いていなくても、今わたしたちは普通に暮らせています。それは火力発電所が頑張ってくれているからなのだけど、それも CO2排出の問題があるのでずっと頼るのはあまりよくない ・・・その代わりとなるのが自然エネルギーと省エネ(=電力消費量を減らす)。省エネといってもガマンの節電じゃなくてエネルギー効率を上げる(少ない電力使用量の機械や家電に替えたり、発電・送電過程のロスを減らす)ことですんごいことに!!それだけムダにされている電気がたくさんあるのです。「省エネ発電」と呼ぶ人もいるほど、このエネルギー効率アップは重要な脱原発のキーです。プラス、日本の自然エネルギーのポテンシャルもすんごいことに!!

などなど、こんな感じで「原発なくてもいけるぜ」情報、でんこれ Q&A 改訂版、ちぇきらう。

2012/02/06

食べ物ノート・レビュー

ひろく、うすく、ながーく汚染が続くとマヒしますね。最近とくに食べ物への注意力が下がってきてラーメン屋に抵抗なく入っちゃう自分もマヒしてきたのかもしれません。それかあまりに周囲が気にしていない様子なので、同調バイアスが働いてきているのかもしれないな。それもいかんいかんと思うのですが、放射能を気にすることに疲れてきている方たちも多いので、改めて放射能汚染の「気をつけるキーポイント」をおさらいしてみようと思います。注:長くなります。

いちから書いていく気力もないので(いきなりの脱力宣言!)、環境活動家で原発・放射能問題に詳しい田中優さんが執筆/発言された情報をまとめられている方の「ポスト311 、何を食べたらいいのか」の内容をベースに、わたしの個人的な見解を加えていこうと思います。原文(前出のリンク)にも注意書きされているように、未知なことが多い現状の中で、優さん( and わたし)の情報がすべて正しいとは限りませんので、鵜呑みにせず、あくまでも参考にしてご判断ください。

以下、*部分が優さんの言われたことの抜粋、文末・文中の( )がわたしの意見/加筆です(わたしも原文全てと意見が合致しているわけでもないので)。
. . . . . . . . . .

《 どの核種を気にすべきか 》
*今回の福島第一原発事故は、チェルノブイリ原発事故と違って核爆発ではなかった。そのため爆発温度が低く、金属が蒸発するほどの温度に達していない。おかげでチェルノブイリのように金属核種が蒸発ガス化して、風に乗って遠くまで飛ぶということはなかったようだ。そのおかげで心配されたプルトニウムはほぼ原発敷地周辺と風下にあたった飯館村(など)にとどまり、骨に蓄積して体外に排出されにくいストロンチウム(以下 Sr.)も被曝量でセシウム(以下 Cs.)の一万分の一以下にとどまった。当初に人々を被曝させたヨウ素は遺伝子を傷つけ、将来に被害をもたらすものの、寿命(半減期)が短かったおかげで現時点では数億分の一まで下がっている。今後気をつけなければならない放射性物質としては、ほぼ Cs に限定されていると言えるだろう。
(海の大規模汚染はチェルノブイリではなかったこと。ひとつのものから Cs が多くでなければ Sr も出ないわけですが、水溶性で海にたくさん溶け出して魚に取り込まれたであろう Sr 。魚の汚染( Sr は骨部位に溜まる)、その生態濃縮、これからの汚染の移り変わりは要ウォッチだと思います。)

《 セシウムの性質と食べ物の汚染 》
*だから Cs を含んだ食べ物が怖い。食べ物が放射能に汚染されていたら、体の中に蓄積されて、内側から放射線に撃たれることになるからだ。体内に入った放射能も、時間が経てば排泄されていく。この時間を「体内半減期」と言って、物質によって大きく時間が違っている。しかし今回の福島第一原発事故では、最大の被曝量となるのは Cs だから、その Cs を見ておこう。Cs は水に溶けやすいと言われる。しかし現実には溶けやすすぎるのだ。マイナス116℃で水と反応するので、常温の大気に出てくれば必ず大気中の水蒸気と反応する。そして一度水と反応した Cs は、二度目の反応はしない。だから常温の世界では水と反応しないのだ。水と反応し、粘土やホコリと反応する。余った電子の数が、粘土を引きつけるからだ。だから現実には、Cs は必ずホコリと共にやってくる。水の底に沈んだ汚泥や側溝の下、雨どいの下やすべり台の下に集まるのはすべてそのせい。エアコンや車のフィルターに集まるのも同じだ。逆にそのせいで、最初の雨水に叩き落されはするが、
その後の雨には含まれにくい。野菜も同じで、当初ホコリと共に降り注いだ Cs が野菜を汚染したが、その後の野菜の汚染レベルをみると、ほとんど汚染されていない。根を経由しての汚染は、ほとんど見当たらないのだ。汚染度は以下のHPに掲載されている。
 ・全食品
 ・淡水魚 
 ・回遊魚
(ホコリにくっつく Cs 関連ではこれからのスギ花粉のことに触れたいのですが、長くなるので末尾にリンクを置いておきます。そして、雨のついての話が出ましたが、先日東京でも雪が降ったときに、Cs とヨウ素が検出されたと騒ぎになったのですが、誤検出でした。久々の雪だったために大気中のラドンが多く含まれていたそうで、それが原因だったとか。昨年3月の大量のフォールアウト後の雨では有害な放射性物質が多く含まれていたのですが、ここでも優さんが言われているように最近の雨にはそれほど神経質にならなくてもいいようです。念のために子どもがびしょ濡れになるようなことは避けたいと思いますが・・・。詳しくは:雨や雪に含まれる天然放射性物質 by こどもみらい測定所

《 産地と濃度に気をつけるべき食品 》
*逆に言うと、汚染されている食品は限定されている。それらを覚えた方がずっと早い。 第一に生体濃縮による汚染だ。栄養と勘違いして集めてしまった Cs を、微生物、小魚、大魚と濃縮してしまった場合だ。この生体濃縮に注意すべきものは、「肉・卵・魚・牛乳」だ。しかし日本の畜産ではアメリカ産の配合飼料を与えるのが一般的であるため、家畜の汚染度は高くない。当初の汚染されていた稲藁を与えてしまった牛肉や牛乳以外では高くはない。
むしろ問題なのは天然由来の魚介類だ。魚の汚染度を見てみると、大まかに淡水魚、海の底生生物、海の回遊魚の順に汚染が下がっていく。淡水魚の中でも特にアユが高い。これは特殊に Cs を集めるコケを食べているためだ。それ以外の淡水魚も高い。これは栄養分の少ない川に生息しているためだろう。汚染されている海は限定的だ。特に福島沖と茨城沖が高い。福島原発から莫大な放射能が海に流されたが、その流れは北から流れてくる千島海流が南に押し、茨城と千葉の県境にある犬吠崎で、南からの強い流れである黒潮に押されてハワイ方向に流されていくためだ。もちろん乱流もあるので周囲に広がりはするが、汚染度の高い場所は福島と茨城沖に限られている。
(肉より魚が注意というのは同感です。我が家は肉も一応産地を気にはしますが、家畜はそこまで深刻化する感じはしていません。都心ではあまり口にする機会はないですが、イノシシやシカなどの野生の獣の肉は今でも危険だと思います。魚は、淡水魚と底魚(ヒラメやカレイなど)はもちろん、海底を這う甲殻類や貝やタコなどもしばらく注意かと。うちは大型の回遊魚(マグロ、カツオ、ブリなど)も念のため避けています。マグロは乱獲の理由から数年前から食べていませんが・・・。あとは魚介類関係でいうと、これからは河口域や湾でとられるもの要チェックです。汚染された土壌を雨が流してはけた水、これからは雪解け水、人々が行う除染で山や陸地から洗い流された汚染水が川に流れ集まり、下流で汚染が高まっていることはニュースにもなっていました。そしてついには海に流れ出る。河口付近の底に溜まり、そこに棲む生物に長期的に影響を与えるとの指摘もあります。海の汚染だけでなく、除染の問題点にも行きつく話です・・・。魚介類についてはこちらも詳しいです:グラフで見る水産物の放射能汚染。)

*第二に特殊に集める生物がある。直接食べることはないがコケ、特に注意すべきなのはキノコ、とりわけシイタケ、ナメコだ。キノコは菌類であるせいか、よく周囲からセシウムを集めてくる。他に葉の固いイネ、笹、竹などが集めやすい。特に来春のタケノコは要注意だ。日本では一般的ではないが、チェルノブイリではブルーベリーが非常に高く汚染されていた。
(わたしはキノコは 3月以来一度も口にしていないのですが、いやはやキノコは最強です。まさにマリオが一機死ぬ毒キノコ。つい先日も干しシイタケから規制値 4倍のセシウムというニュースがありましたが、今どきあの異常に高い暫定規制値を超えてしまうものなんてキノコにしかできない荒技です。26年経った今でも、欧州でチェルノブイリ由来の高い Cs がマッシュルームから出たという記事も見ました。以前も触れましたが、汚染されたおがくず(菌を育てる床)が北関東から四国に流出した例があったので、今でも産地を問わずキノコは気をつけた方がいいと思います。ああ、なめこ汁食いたいなぁ。)

*第三に幹や枝葉から汚染が伝った可能性のあるものとして、果物、クリ、ウメ、お茶がある。福島周辺は3月の時点では若葉はまだ生えていなかった。幹と枝ばかりの落葉樹には、幹自体に汚染が取りついた。それが樹幹流と呼ばれる雨水の流れとともに、果実に入り込んだのだろう。お茶の調査では根から吸い上げたものではないとされている。汚染された落ち葉も、2011年の葉よりも2010年に落ちた落ち葉の方が汚染度が高い。
(静岡のお茶でもまだ検出されますね。お茶、クリ、ドングリの汚染について詳しく書かれたブログ記事をリンクします。スギ花粉のことにも触れられています。)

*第四に部分的に集めている作物がある。特にコメの胚芽部分、小麦の麦芽部分だ。チェルノブイリの調査では、胚芽部分に93%の汚染が集中していたというデータもある。胚芽部分を除いた白米では、汚染は相当低くなる。
(米は高濃度に汚染された場所は福島県の一部などとわかっているのに、そこから産地偽装などされて(例えば新潟に運ばれ「新潟産」とパッケージ記載されて)流れているという情報をいくつか見かけました。作らなければ補償がもらえないなどの問題もあり、一部の農家さんたちは作付けしてしまったんですよね。こういったトレースしにくい米は厄介です。摂取量が多いため、産地が確実なものを選ぶことが安全確保の近道と言えそうです。この産地表記が確かだ、という点でも産直のパルシステムなどの生協はおすすめです。ちなみにパルは厳しい自主基準を設けて検査機も導入し、検査結果を公表してくれています。)

*他の野菜類は根から集めていないようだ。そもそも Cs を植物は吸い上げたくはなく、カリウムと間違って集めている。カリウムが十分な土地では集めないのかもしれない。しかもチェルノブイリでは、年数が経つにつれて Cs 汚染は下がっている。セシウムは粘土に吸い込まれやすく、年を追って引き出されにくくなるようだ。その結果、ホコリをかぶった当初の野菜を除いて、ほぼすべての野菜の汚染度は極めて低い。ホウレンソウもナタネもヒマワリも集めていなかった。特にナタネが集めていないことを知ったとき、ほっとした。というのは、日本人が食べている野菜の中では、ナタネと同じアブラナ科の植物が圧倒的に多いから。ということは、私たちの食品はかなり汚染を避けられるのかもしれない(後略)。
(確かに野菜は落ち着いてきているようですが、れんこん(茨城が主な産地)など最近でもわずかに検出されていたのを見かけました。しかし検出されたケースでも野菜はキノコのようにバカ高い数値はでないのは事実です。)

以上!
. . . . . . . . . .

備考:
・セシウム花粉情報
(2月から4月は花粉症でもそうでなくても、とりあえずマスクしといた方がいいってことです)

・新基準値も全然あかん情報
(乳幼児食品に配慮するはずの改定が、牛乳 50Bq から 100Bq に逆戻り?・・・乳幼児のみならず妊婦への配慮もないダメダメな新基準値。外部被ばくとの合算もまったく考慮していないし、それ以前に検査はザルだし、期待薄です・・・この危機感なさ、いつまで続くやら。)

2012/01/25

クレイジーな幕開けと豊富(のようなもの)

あけましておめでとうございます(遅)。もうお年玉付き年賀状の当選番号も発表されているというのに・・・。いつの間にか睦月もあと一週間だというのに・・・。この時間が過ぎていく奇怪なスピードは一体なんなのでしょう。地震の前兆で 24時間が早く過ぎているとしか思えません(クジラが海岸に打ち上げられたりするのと同じ)いや、これは笑えないんだけども。

旅からは2週間ほど前に帰国していました。そのことも書きたかったのに書けておらず。インドに行ってました。え?(わたし自身が「え?」と言いたい)インドです(注:高円寺ではない)。マジカルミステリーツアーな珍道中でした。4歳児連れて 4都市 16日間だかんね、どんなヒッピーファミリーなんでしょうか。

すんごく疲れたけれど、インド自体すべてがとても刺激的(スパイシー?)だったし、原発・放射能マインドやインターネットから(完全にではないけど)半月も離れたというのも、行く前と比べて構え方に変化をもたらしたかもしれません。今自分の暮らしの大半を占めてしまっている原発・放射能のイシューの追跡と、メールやツイッターのネットワーキングから離脱することは簡単なことでした。現実を無視することは楽な部分もあったけど、離れたからといってなにか現状が改善されるわけではない。戻ってくるホームベースが汚染されていたら、原発や六ヶ所再処理工場やもんじゅがまだ国内で動いていたら、心は晴れない。ハードな旅だっただけに帰国してホッとするも、心底安堵しきれないのが腹立たしく、成田に降り立った途端に Back to action スイッチ・オンという感じでした。別にそれを重荷とも感じないあたり、脱原発への関わりはもうライフワーク化しているのだと思います。

インドの公衆衛生や人権無視のようなひどい環境下の貧困層などを直に見ると、比べることではないのだけど、単純にわたしの目の前のリスク(放射能汚染)ってなんだろう、と考えてしまうところはありました。「インド軸」を持てたことはひとつ大きな収穫(「インド軸」で見ると、日本のすべてがブルジョアなんですが・・・*「戦中・戦後軸」でも代替可能)。まともに暖をとれる家があるありがたさ。毎日ごはんが食べられる、お風呂に入れるありがたさ。すべての「当たり前のインフラ」のありがたさ。しかし、自分は恵まれている、自分はまだいい方だ、ひとより大変な方だ、と他人を持ち出して比較の対象にして、自分の置かれた状況を確認したところで何が生まれるのか、うまく整理がつきません。だからなんなんだよ、というか。そういう「自分のいる環境レビュー」を時々することは必要なような気はするけれど。

人間の社会の中で大変なこと・理不尽なことは、内容やスケールは違えど、どこの国でもいつの時代でも生きている限り必ずあるわけです。今自分の目の前で進行する公害をつくった元凶がはっきりしている限りはその退治が先。「自分の苦境は "比較的" このくらいのレベルだ」というのは平和なときにゆっくり考えたいと思います。ただ、前にも述べたけれど、放射能汚染のリスクは世の中に数多あるリスクのひとつに過ぎないことは忘れないでおこうと改めて思いました。

ハードコアな旅の記録はそんなわけで(?)一旦置いて暖めておきます。いつになるやらですが、後日 Crazy India のまとめをできればと思っております。帰国してすぐの週末に横浜で脱原発国際会議があって両日行ったので、そのことについてや、年末にメディア・アクティビストのイルコモンズさんと素人の乱の松本哉さんのアクティビズムに関するトークを聞き、そこで気づいたことなど、そちらを優先して綴っていきたいと思います(なかなか書く時間がなくて悔しいっ!)。わたしも徐々に注意力が落ちてきていてよくないのですが、引き続き重要な食べ物の対策についてもまとめたいです。

日本の原発は今、54基中たったの4基しか動いていません。それでも難なく生活ができているというのに、まともな評価やプロセスなしに、止めた原発を再び動かそうという強引な再稼働の動きもあります。福島第一原発の事故の調査結果も待たずに、です。一方で、今年に入って自然エネルギーに関する法案なども具体的なことが決められ始めています。とにかく 2012年は脱原発のカギとなる年。今年で大きく転換できなければ後はない。ここでわたしたちが大きく主張をしなければ、沈黙は「原子力政策に yes 」と同義です。これまでがそうだったように。

できる限りのことを、自分の力が生かせる方法で、ムリせず継続的にやっていきます。でも今年はもうちょっと効率的に動けるといいんだけども。