明日で 311 から 1年。
あれから、みなさんの 364日はどのような日々だったでしょうか。住むところや、それぞれの環境や興味によっては、他の 1年となんら変わらない年月だったという方もいるかもしれません。そして明日。ホワイトデー前のただの週末としてショッピングを楽しむ方もいるだろうし、家族の命日を向かえる方も多くおられます。
書き留めておきたいことが多すぎて、何からスタートしていいのかわからないけれど、とりあえず、明日どのように過ごすかについてのことと、それにまつわる話から始めます。
個人的に脱原発に取り組んでいる NGO から仕事を受けることが多く、自分自身も活動に10年ほど関わっているため、311以降、その環境の中でできる範囲の活動をしてきました。夫も報道関連の仕事をしているので、昨年から我が家では「原発事故特需」的な現象が起きて、皮肉にも仕事が忙しくなりました。それが脱原発に多少は寄与するものなのでまだいいといえばいいのですが・・・。なので一年目が近づくに連れて、ここ数週間はとてもバタバタしていて、夫も被災地に頻繁に行きました。彼からの生々しい報告を聞くうちに、一年も経ってから、津波の被災者の方たちのことを知ろうとしてこなかった自分に気づきました。原発と放射能の問題、一束に被災地と言っても福島の問題は、ほぼ毎日向きあわない日はなかったけれど、津波被災地のことは、恥ずかしながらここ数日で詳しく現状を知ったと言っていいほどです。「被災地から遠く離れるほど、人々の関心は津波から放射能になる」とどこかの雑誌にも書いてあったし、「東京と被災地の隔たりを見守るということ」についてのブログ記事(おすすめします)も先日読み、考え込んでいました。まだ知りきれていないことの方が多いだろうし、被災地の方々の心情については、本当にわかることはできないと思います。
特に人の死に関する話は本当に壮絶です。夫が直に撮影でお会いした方は、津波の被害が酷かった町のお母さんで、小学生のお子さんを亡くされたのだけれど、遺体が長いこと見つからず、自ら重機を運転する資格を取って瓦礫を掘り起こして捜索を続けた末、やっと川辺でお子さんの遺体を発見したそうです。川辺で体の一部のない遺体を見つけたときの話の中で「娘はあんな冷たいところにいて、さぞ寒かっただろうと思う」とつぶやかれ、うちの夫はカメラのファインダーの後ろでぼろぼろと泣いてしまったと。そして別の町では、幼稚園バスが津波で流され、園児たちの遺体が見つからずに、お母さんのグループが遺品の捜索をいまだにしているという話。昨日ラジオで聞いたのは、生まれてすぐの母子が津波で病院内で亡くなり、遺体で見つかったときにはお母さんが赤ちゃんを包み込んで守るようにして横たわっていたと。その父親は、数ヶ月後に出生届を出しに役所に行かれたのだそうです。出生届けを出さなければ埋葬許可が下りないために、亡くなった赤ちゃんの出生届を。耳を塞ぎたくなるような逸話だと思います。様々な信じがたい喪失が幾千と起こり(ここに上げたのもごく一部ですが)わたしが知ったのはその欠片にも過ぎません。
中でも子どもの話がやはり頭から離れません。夫とも話したのだけれど、自分に子どもができてからは、やはり子どもが犠牲になった話を聞くと、自らの子どもに置き換えてしまうために凄まじく切ない(切ないという言葉が弱いけど、一番強い言葉が見つかりません)。そしてまた、無情にも自分の子どもでなくてよかったと次の瞬間思ってしまい、つらくなります。誰の死も親しい人にはつらいけれど、子どもの死ほど悲痛なものはないのは、子どもには未来があるから。
未来。
私事を挟ませてもらうと、わたしは幼くして母親を亡くしているのですが、思い出すのは、そのときの祖母の憔悴ぶりです。子どもである自分もダメージはあったと思うけれど(はっきりいってそのときの感情をあまり覚えていない)今思うと、親を亡くすよりも我が子を亡くした方がその打ちのめされ様が違うんだなと。単純に比べることではないというのはわかっていますが、やはりそれは「これから」がどれだけあるかの話なのだと思います。親を亡くした子は、前途多難であろうが未来があるけれど、子どもを亡くした親にはロスしかない。未来を奪われたからです。子どもの未来と、自分自身の未来の一部を。
ここでまた、原発の話になって申し訳ないのだけど、わたしは、亡くなった子どもたちと親御さんたちに心を寄せながらも、これからを生きる、いま生きている子どもたちの未来の社会のために、できることをしたいと強く思います。そして、こんなときだけ「被災者」の方に立つように聞こえるかもしれないけれど、わたしは「原発さえなければ」と書いて自殺された農家の方の話が忘れられないし、原発事故がなければ東北全体の復興はもっと迅速に進み、津波直後の救助にも注力できたはずで、それで救えた命もあっただろうと思うから。自然災害に次ぐ人災は、再発を防ごうと思えば防げるのに。・・・なので、明日は喪章をつけて、日比谷公園での集い、黙祷ののちに日比谷公園から出るデモと、そのあとの国会の包囲(人間の鎖)に行きます。世界各国でも福島追悼・脱原発のアクションが行われる模様です。フランスではかなり大規模なヒューマンチェーン(人間の鎖)が行われるそうようですね。明日ご予定のない方、国会包囲、いっしょにいかがですか。
そのほか、全国で様々な催しが行われます。脱原発に関するアクション、追悼の集い、被災地支援のチャリティーイベント etc. 。原発関連のアクションは 3/11 には不謹慎だというような意見が出ていると Twitter などで目にしましたが、わたしはそうは思いません。亡くなった方たちの追悼と、脱原発は対立する概念ではないと思うから。Twitter の人気キャラ、もんじゅくんの言葉を借りると、『追悼は、未来を生きていくために、たしかにあの日までともに生きていたひとたちを想ってしのぶこと。脱原発は、未来のために、これから生まれてくるひとのために、よりよい世界を用意するよ、と誓うこと。』
・・・双方ともよりよい未来に向けて歩むため。
最後に「追悼・対・政治的なアクション」に関連して、とあるブログで見た、責任についての話をして終わりにしたいと思います。中盤で、広島原爆の追悼碑に刻まれた「安らかに眠ってください、過ちは繰り返しませんから」の文言についてのくだりがとても興味深かったので引用します。
《 脱原発の学習会で、「(脱原発を決めた)ドイツと日本の違いは何でしょうか?」との質問が出た。おそらく、それは「責任の取り方が違ったからだ」と思ったからそう答えた。ナチスの犯罪を謝罪し、犠牲になったユダヤの人々にちゃんと補償をしたのがドイツの戦後。一方、日本は「一億総懺悔」で、「過ちは繰り返しませんから」と石碑に刻む。何という曖昧さ、そして主語のない文章!今回の原発事故もそうだ。「がんばろう福島」「負けないっぺ福島」。そんな標語で生活は補償されるのか?流された家は帰ってくるのか?ローンは、仕事は?町に掛ける看板は「東電よ、きちんと補償せよ」「政府は責任を持って故郷を復興させよ」であるべきではないか。エジプトやリビアで、独裁者を打倒する若者たちの運動を目の当たりにしてきた。彼らは独裁者に偏る富、理不尽な格差、政治的自由などを求めて、街頭に繰り出し、デモをして、とうとうその独裁者を打倒してしまった。つまり中東の若者たちは敵を見誤らなかった。貧困層と中間層が団結し、「生活を苦しめている本当の敵」に向かっていった。》
それぞれの静かでピュアな「追悼」や本当の「絆」が、誰かの策略のもとに乱用され、脱原発や被災地復興の中でターゲットを見誤らせる結果となることは絶対に避けたい。わたしはわたしの追悼をしながら、子どもの未来のために、ぶれずに(敵を見誤らず)止むなく行動していきます。
長文、最後まで読んでくださった方がいらしたのなら、どうもありがとうございます。
もし被災された方が読まれ、気分を害されるような記述がありましたら、気が回らなかったことをここにお詫びします(気づかず、そういったことが多々あるのだと思うので)。
イベント情報:
・311 脱原発 - 祈りと一歩 - (全国アクションマップ)
関連リンク:
・「被ばくすることが仕事」という原発の現場をリアルに知ることができるインタビュー。反原発運動と労働者、福島と東京の乖離、沖縄基地問題との通底などにも触れています。「原発収束作業の現場から:ある労働問題活動家の報告」(長いけど必読です)
・「1000年後の未来に伝えたい 311の記録」(これも以上に長いけど・・・メモとして)
・「ママは原発いりません」思いをきいてください(福島の現状)
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