自分はお世話になったことはないけれど、空港で "lost and found" を見かけるたびに、英語ってシンプルだなと頷いてしまう。「遺失物取扱所」と言われるよりなんだか lost and found だと、なくしちゃったけど見つかる感じもしませんか。

人間は忘却の生き物です。忘れないと新しいことを覚えられないという許容量の問題だけでなく、意図して忘れ去りたいことも多い。忘れたくない、忘れてはいけないこともたくさんある。ここは忘れっぽい自身の日々の「公共備忘録」です。また、立ち寄ってくれた方たちがここで何か発見をして、喜んだり怒ったり哀しんだり笑ったりしてもらえれば幸いです。

《 NOTICE 》ちなみに今はもっぱら脱原発ブログとして展開中であります

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2012/09/09

それは、わたしだった

あることについて
いつもなんで誰もそれをやろうとしないんだろう?
と思っていた。
そして、気づいた。
その "誰か" は自分自身なのだと。

というのはどこからか流れ着いてきた格言(言った人不詳)ですが、本当にその通り。すべての大小ある社会の問題の解決に取り組むことはできないけれど、イシューについてはこの世に暮らす各々の役割分担なのかなと思います。

昨年から(厳密には10年前からですが)ゲンパツゲンパツと騒いでいるわたくしですが、他の数多ある世の中の問題たち、時事で言えばオスプレイもシリアも気になりながらもきちんと向き合っていません。その他、小さな自分の身の回りの問題も存在するし、カタいこと抜きの娯楽の時間もあるし、仕事も家庭のケアもある。同様にこの世のわたし以外の人々全員にもそれはあります。寿命に幾分違いはあれど、いっぺんに抱えられる荷物の量はみんな同じだと思います。だからできるところを、できる分ずつ、シェアして取り組めばいいのだけど(理想)。

社会のため、というと大仰だけれど、自分が属する場所や子どもの未来の向上のことです。

先日、市民運動とは無縁の、うちの子の幼稚園のお母さんのひとりから嬉しいメールをもらいました。
「この夏は社会勉強を兼ねて子どもを国会包囲にも連れていきました。私のような事故の前には無関心だった層が意思表示をすることに意味があるように思うので、日常の一つとしてできる行動を続けていこうと思っています。」
まず、これまで声をあげてこなかった人々の意思表示の大切さに触れてくれたことに感涙。プロ市民と呼ばれるような活動する人々の人口はたいして増減ないでしょうが、新規参入の「意思表示するひと」の数がある意味勝負なようなところはあります。そしてもうひとつ、これからの世代への「意思表示の踏襲」です。このママさんはそこまで考えて国会包囲に子どもを連れて行ったのではないと思いますが、わたしは子どもさんの記憶には何かが刻まれたに違いないと思います。デモに子どもを連れて行くのは危険だ(大勢の人でごった返していて危ない/都心の放射線量がそこそこ高いなどなど)といろいろ賛否両論ありますが、わたしは「本物の社会科見学だ!」と言って(あと、帰りにアイス買ってあげる!とかで釣りつつ)デモや抗議に子どもを連れ出していました。何より彼女が大人になったときに、自分に直に関係ないと思われる大きな社会の問題でも(実は必ず関係しているから)全体を思って、声を上げるべきところで意見できるようになってほしいなぁと、いうのがあります。彼女の記憶のどこかに、デモの記憶が少しでも染み込んでいれば、それが当たり前の権利だという考え方をしてくれると思うのです。

昨今のデモなどで、日本で民主主義が最近目覚めてきたというようなことを言われますが、今だけでなくて子ども世代も続けて今沸き上がっている状態を保ってもらわないと、原発問題に関わらず、政治が勝手に動くままに着いていくようでは先行き暗いです。原発の問題も一発で解決して「はい、全基廃炉になりました!勝ちました!」で決着がつくものではなく、長期的にベターになっていくものだし、次々と表れる別の問題を解決しながら進んでいかなければなりません。民主主義も同じで、リペアを繰り返してよりよい状態に保ちながら、つないでいかなければならないものです。行政や企業への監視を怠れば、後退もするでしょう。わたしたちが、望む方向へ進むよう、舵を握るひとたちへしつこく要望をしつづけていかなければ、船はときによからぬ方向へ進みます。幸い、日本では政府に反論したり政治的な運動をしても投獄されたり暗殺されたりしません。そんなえらいことになってしまう国もいまだにあるけれど。

声を少し大きめにあげてみませんか。たくさんの乗員が他にもいるけれど、あなたもわたしもこの大きな船の一員だから。

「最大の悲劇は、悪人の暴力ではなく、善人の沈黙である」- Martin Luther King

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