自分はお世話になったことはないけれど、空港で "lost and found" を見かけるたびに、英語ってシンプルだなと頷いてしまう。「遺失物取扱所」と言われるよりなんだか lost and found だと、なくしちゃったけど見つかる感じもしませんか。

人間は忘却の生き物です。忘れないと新しいことを覚えられないという許容量の問題だけでなく、意図して忘れ去りたいことも多い。忘れたくない、忘れてはいけないこともたくさんある。ここは忘れっぽい自身の日々の「公共備忘録」です。また、立ち寄ってくれた方たちがここで何か発見をして、喜んだり怒ったり哀しんだり笑ったりしてもらえれば幸いです。

《 NOTICE 》ちなみに今はもっぱら脱原発ブログとして展開中であります

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2012/03/15

最大のプロパガンダ vs デモ

核問題を追い続けているドキュメンタリー映画監督の鎌仲ひとみ監督が「国の最大のプロパガンダは《何をやっても、どうせ社会は変わらない》と信じ込ませることだ」と発言されているのをどこかで読みました。本当にそうだと思う。しかしながら、原発事故以降、原発はいらないと声をあげ始めた、これまで運動に携わっていなかった普通の人々を見ていると、今までのぬるま湯だった日本がやっと沸々と適正温度になったかと思います。以前、環境保護団体で勤めていたときに、あまりの日本での活動のやりにくさ(人々の理解の得にくさ、社会問題を自分のことだと思わない当事者意識の低さ)に「日本人はアパシー(無関心)の塊だ」と他国の同僚にぼやくと、どこの国も無関心層はいるよと言っていたけれど、日本社会の成熟度の低さは格別という思いは変わらなかった・・・今も変わっていないのだけど、311 以降絶え間なく続いているデモを見ていると(参加していると)、今こそもしかしたら日本は大人になれるのかもしれないと僅かな光が見えます。


これまで日本でも革命を叫んだ運動がありました。60s の学生運動がポシャったり、チェルノブイリの事故が発端の反核運動も長続きしなかった関係で、歴史的に市民運動全般をマイナーで力のないものとして扱う(んなことやったってどうせダメだよ的な)流れがあります。あと、"打倒"とか "阻止" とか圧力的な言葉連呼で鉢巻き巻いちゃったり、内ゲバが起きた過去の印象で「デモは怖い」といったネガティブイメージを持つひともいます(それを持ち出してデモに来ないような人は完全に言い訳だと思うんだけどね)。今の脱原発運動が一過性のブームなのか、それは何年後かに振り返ってみないとわからないけれど、これまでと違う何かを感じるのは、Twitter やフェイスブックなどのインターネットを通した新しいネットワーキングが追い風になって吹き続けていることです(これは改めて言うことでもないのだけど)。先のエジプトの市民革命もそういった新しいツールを通してのネットワークの影響が強みとなり、それに加えて実世界での口コミなどが加わって伝播していったと聞きます。

今現在、首都圏で行われているデモはかなり多様化してきているのですが、そのカラーに注目して、いくつか記録しておきます。様々なデモといっても単に主催が違うというだけでなく、同じ最終目標「脱原発」を掲げながらもそれぞれ微妙にアプローチが違うのです。昔から反原発運動をしている原水禁などの古参には何ら変わった動きはないのだけど、感情的かつ戦略的に、常に模索/変化しながら活発に動いている中学三年生のような、熱くて正しくて悩み多きデモは本当に興味深い・・・その1つは Twitter から繋がった人々で興されたその名もツイッターデモ Twitnonukes です。主に東京では渋谷・原宿エリアで行われることが多いデモですが、どこでも人を集めるツールとなれる Twitter が軸なので、全国各地で(それぞれ違う人が主催で)行われてきています。デモ自体をまとめるために誰かしら中心的メンバーはいるわけですが、リーダーというリーダーをわざと設置せず、Twitter のフォロー関係でやんわりとつながった個人の集合体としてデモを行っています。この「やんわり」がポイント。あくまでインディビジュアルの集合体であり、なんのイデオロギーもなく既存のいかなる団体が組織するものでもない、デモは「箱」であり「無色」であれ!その中で個々人がシンプルに主張をすべき、という主義。よって、労組左派の幟があったり右翼の日章旗があったりするのはご遠慮願いたく、「脱原発」のたった一点で、プラカードだけにしてほしいと。関係ないもん持ち込まず「原発をなくす」シングルイシューで集おうよ(=そしたらイデオロギー付きの運動に嫌悪感を持つ層もすんなり入り込めるから、活動する人々の数が増えるよ)と。これは目的がブレがちな運動というものに「なんのためにやってんだ」と常につきつけてくれる真っ当なポリシーだと思います。「デモのためのデモにならないこと」「自己満足にならないこと」これらのスタンスにはとても共感。こじんまりとしているけれど、柔らかな印象の中に力強い怒りを持つ、新しくも正統なデモです(とわたしは思う)。

そして、間口を多くのひとに開いているのは同じであるのに、右も左も自民も共産もなんでもかんでも全部ウェルカム!楽しくなければ人も動かないぜ!というもんのすごいローカルデモが杉並でありました。2/19 に杉並で行われた有象無象デモです。ローカルと言っても全国各地から 6000人ほどの参加があったとのことで(わたしも行ったけど)かなりの賑わいでした。(何を隠そうわたしも 10年ほど好んで暮らしてた)杉並は元々市民運動が盛んでリベラルな風潮がありました。昨年 4月に高円寺で勃発した「素人の乱」の大きな反原発デモの流れをくむもので、完全にカーニバル(脱原発替え歌カラオケカーが出たり、酒を売りながら練り歩く移動式バーがあったり、お菓子配ってたり、最後には解散地点でフォークダンスも踊ってた)で、とんでもないそのカオスさを魅力としていました。それを邪道(?)で真摯でないと批判する声もあったけれど、脱原発に関わる入り口としてそれが入りやすいと感じる人も多くいると思うし、ニーズがある限りそれもアリだろうと思いました。この杉並デモのはじけ方は本当にすごかったし、あれを越す「寛容さ」を持つデモは他にはないでしょう。

そして、このデモの特徴は何といっても「ローカル」であること。地元をガツンと巻き込んでいるので、元々つながりのある高円寺・阿佐ヶ谷(商店街が多い)エリアの商工会やら市議やら住民同士が運営に関わって盛り上げているのです。デモの実行委員は杉並区民有志。沿道でトイレを貸し出すサインを掲げるおばちゃんも見かけたし。最後には商店街の飲み屋などでデモに行った人は割引になる「デモ割」なるものも発生していました・・・もう、わけわかんない。この大風呂敷を広げた話題性に加えて、PR がとてもうまく、早々から著名人(杉並にまつわる有名人から関係ない人まで)を賛同人にしたり、彼らの Twitter で言及してもらったりと告知に余念がありませんでした。ちなみに「有象無象(の集団)」のコピーは、杉並在住のドイツ文学者で翻訳家の池田香代子さんが名付け親のようです。

杉並デモも Twitter デモも「小異を捨てて大同につけ」という点では同じ。イデオロギーのあるデモではどうしても参加者が決まってしまうため、組織動員でない、器に徹するデモの重要性が感じられます。左寄りのものと思われていたデモも、今では右デモ(美しき日本の山河が汚された、国民の健康が損なわれたことに怒る民族派右翼の方々による「右から考える」脱原発運動)もあるくらいな昨今。それはそれで必要とするひとがある限り、在っていいわけで。

かつて、こんなにデモにバラエティがあったでしょうか。わたしはそれが希望だと思うのです。先日の 311 に日比谷で行った大きなデモ「東京大行進」をオーガナイズしたのは、首都圏反原発連合というこの様々なデモ母体の集合体でした。手を取るべきところは繋いで一緒にやっているわけです。

同じ脱原発を志すひとたちでも(以上はデモの話でしたが)細かいことになってくると、意見の相違が出てきて仲間割れしがちです。真剣であれば真剣であるほど「こうすべき」が増えて、内ゲバになる。それぞれの角度ややり方の尊重が大事ということにつきるわけですが、これをわたしは「役割分担」とよく呼んでいます。意見の違いというと叩き合いになるけれど、大目標を達成するための役割分担だと思えば。初級のソフトなデモも上級のハードコアなデモも、需要はある。内ゲバは原発を推進する側の思うつぼ(脱原発運動を連帯させないために推進派が仲を割らせるスパイを送り込んでいるなんて話もちらっと聞いたことあるけど、どこに送ったんだか)そんなことしてる暇ないし。炭水化物を摂取するのにごはんで摂るか、うどんか、パンで摂るかみたいなもんで、「炭水化物が胃に入る」目的さえ達成されれば、自分の好きなやり方でいけばいいと思う。他人のやり方や好みを無闇に否定するのはよくない。そっちはカロリー高いからこっちがいいんじゃない?とか事実を比べる議論はあっていいと思うけれど。

デモ分野内の「役割分担」もそうだけれど、脱原発運動全体にも役割分担はあります。自治体に訴える人、国に訴える人、電力会社を集中的につつく人、地方でやる人、東京でやる人、自然エネルギーの拡大からやる人、PPS で脱東電を広める人、原発のコストを数える人、放射能の拡散予測をする人、原発の輸出を叩くひと etc.・・・この「役割」の多様さとそれが日本全国各地で始動していることを実感したのが 1月に横浜で行われた脱原発世界会議(会議というかアクション見本市だった)。それだけでとても意味があったイベントでした。様々なアングルからのアクションたちはお互いを受入れ、ヨコ同士でつつき合わず、常に前に向いて進まないといけない。

昨年末にマガジン9条の企画で聞いたイルコモンズさんと素人の乱の松本哉さんのトークの中で、デモに盛んに参加されているイルコモンズさんが言われていて共感したのは「デモだけでは何も変わらない。デモだけで社会が変わったらその社会はアブナイかも。いろいろな運動(デモあり、不買運動あり、選挙あり、署名あり)とアクションの相互作用、セットで、変化が起きる。どれも必要。ひとつのアクションに成果を期待しすぎるのは危険。すぐに成果がでないと諦めやすくなるから。」と。そして「デモで戦争が止まったことはないんです。だけども戦争を拡大することを防いでいるんです」と。デモで原発が止まるかといえば、止まらないのかもしれません。でもそれが民衆に与えられた数少ない抗議手段であり、いくらか効力が(それがどのくらいかは未知なのだけれど)あり、目標に近づくための役割を果たしているとわたしは思うので、これからも足を運びます。

残念なのは、これはおそらくわたし自身が運動の内側にいる人間であるから、様々なムーブメントが活発だと思っているのであって、外側のフツウに運動と無縁に毎日を送っている人から見れば何も起きていないに等しいのかもしれないということ。その垣根は、いつとれるのか。日本のメディアが改心してくれれば近道になるとは思うけれど。

《余談》
日本のデモの警官配備はまだときに異常な数で余計な厳しさも見られるけど、最近はお巡りさんも慣れてきて落ち着いてきたみたい。警官隊見てアドレナリン出て歯向かいたくなっちゃってるのは全共闘時代再燃のおじさまたちだけの模様。ちょっとした笑い話で、警察車両の運転席に『デモいこ』という 311以降沸き上がった様々なデモについてのまとめ/ガイド本が置かれていた(お巡りさん勉強中)とかいないとか。昨年の春頃は不当逮捕等が起こってかなり緊迫していましたが、あれも日本の市民がこれまでどれだけプロテストをしてこなかったかという現れだと思う(=警察が暴動とかにまっっったく慣れていなくて過剰反応してしまう)ので、今やデモもやっと日本に浸透してきたといえるのかな。お巡りさんも家ではお父さんだったりするわけだし、密かに脱原発の意思を持つ方も結構いるようです。

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