自分はお世話になったことはないけれど、空港で "lost and found" を見かけるたびに、英語ってシンプルだなと頷いてしまう。「遺失物取扱所」と言われるよりなんだか lost and found だと、なくしちゃったけど見つかる感じもしませんか。

人間は忘却の生き物です。忘れないと新しいことを覚えられないという許容量の問題だけでなく、意図して忘れ去りたいことも多い。忘れたくない、忘れてはいけないこともたくさんある。ここは忘れっぽい自身の日々の「公共備忘録」です。また、立ち寄ってくれた方たちがここで何か発見をして、喜んだり怒ったり哀しんだり笑ったりしてもらえれば幸いです。

《 NOTICE 》ちなみに今はもっぱら脱原発ブログとして展開中であります

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2012/09/18

大衆運動と報道

朝日新聞のデジタル版に、TBSの報道局の方が書かれた『日本のテレビ局はなぜ反原発の動きを報じ損ねたのか?』というとても興味深い記事が載っていたので一部引用してダイジェスト版で紹介したいと思います。消えてしまう前に本当は全文転載したかったのですが、禁じられているので(全文はこちらから)。

表題のことについては、ずっと落胆していました。それをメディアの中の人が提起してくれたことは希望が持てる反面、やっとですか・・・という気持ちも。

「一色に染まりがちと言われている日本のマスメディアにおいて、首相官邸前や各所で展開されている脱原発、原発再稼働反対を訴えるデモ・集会をめぐっては、メディア間にはっきりとした扱いの違いがみられる ... この違いはどのような理由によるものなのか」として;新聞では、読売・日経・産経は明らかに脱原発の市民運動に対して「抑制的、あるいは露骨な嫌悪さえ滲ませている」報道、逆に、東京・毎日・朝日は「今回の事態に一定のニュース性を見出して、比較的大きく報じていた。とりわけ東京新聞は、紙面を大きく割いて集会・デモの様子を詳報している。」と。東京新聞の論説委員の長谷川幸洋さんもTwitter で日々原発問題に鋭く切り込んでいるし、(ほぼ)原発の特集枠もあって東京新聞の吹っ切れ方(?)は粋です。テレビでも温度差が各局の間に確実にあり、「同局のなかでも番組によって、さらには曜日によって違っている」と述べられています。テレビを見ないのでわからないんだけど、確かに TBS とテレ朝(特に報道ステーション)は比較的フェアな印象です。

暴徒化するような蜂起でなく、万単位の市民が「非暴力直接行動」という形で整然と街頭に繰り出し、しかも週に一度のペースで集っている。それが「有力新聞において全く無視されている事態に異様なものを感じる」という筆者の意見にわたしも同意です。

311前の "原発ルネサンス期"(原発が地球温暖化抑止になるとして - 本当はならないんだけど - 全世界的に原発推進を疑問を呈さなかった時代)には政府の国策に添った報道が席巻し、ルネサンスと呼ばれる時代以前からのことではあるけれど、脱原発の集会や運動にメディアは冷淡であり、市民の「異議申し立て」がニュースになるようなことは滅多にありませんでした。そこで起こった原発の過酷事故。チェルノブイリのときにも反原発運動は起きたけれど、国内でのこの事態に、切迫した市民が当事者性を抱えて本気で抗議に押しかけている・・・「その「本気度」が反映されて、参加人員の急激な拡大、運動の形態の自由な広がり、SNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)経由の圧倒的な情報の共有、主催者としての政党・労組の後退などいくつものニュース要素が登場してきた。そのことに既成メディアであるテレビは気づいていただろうか?それまでの10年余りの報道の日常感覚に埋没して、「どうせデモやるああいう人たちでしょう」というような慣性・惰性に支配されていなかったか?」・・・ここで筆者は重要な指摘をします。テレビの編集長クラスに 311前の10年(失われた10年)ほどの間に刷り込まれた大衆運動軽視の感覚に色濃く影響された世代が多く、「換言すると、スリーマイル島、チェルノブイリ、JCO事故直後に報じてきた異議申し立ての動きの価値を、これらの世代に継承できなかった僕らの世代の責任」もあるだろうと。

また、「後続世代の大衆運動、社会的な異議申し立てに対するアレルギー、嫌悪感、当事者性の欠如には凄まじいものがある。デモや社会運動という語にネガティブな価値観しか見出せなくなっているのだ。これはおそらく日本的な特殊現象であり、かなり異様な事態である。欧米では、言うまでもなくデモは権利」と言及し、そういった彼らも、アラブの春など国外の大衆運動についてはポジティブな評価を与えている、という指摘も。日本では爆発的な印象こそないけれど、諸外国の昨今の革命に似た動きになってきていると思うのですが。やはり Twitter などの影響は無視できないと思うのだけど、メディア側がいまいちそのスピードに乗り切れていないのかなぁという感じも。

そして根本的な問題点で、日本のメディアのスタンスとして、国民よりも権力側に近い感覚を持つ「官尊民卑」の思想があり、デモの報道の際も警備する側の立場に報道機関側が同調していると、NY Times 東京支局長のコメントの引用文を交えて述べています。(この "「官尊民卑」がもたらす取材感覚の欠如 " の項だけでも、是非原文で全部読んでみてください!お願いします!って誰に頼んでんのかわかんないけど。)

最後に、首相官邸前抗議に 5万人近く集まった日にも取材クルーをまったく出さなかった NHK に対し、どうせ NHK もどこもヘリを飛ばしてこの様子を記録してくれないだろうと怒り諦めた市民によるカンパで、その翌週に民間(「正しい報道ヘリの会」)でヘリを出して報道・撮影がされたという逸話を紹介し、メディアの情けなさについて触れたあと(わたしもオンタイムで Twitter でこの件を追っていましたが、本当に日本のメディア情けねえなぁとつくづく思った)「NHKの現場の記者たちのなかにも、息苦しさを感じている人たちがたくさんいる。彼らは今、声を潜めている。組織の論理が記者の良心を押し潰しているのだ。」と、若干ディフェンスに入りつつ「メディアに関わるひとりひとりが考えるべき時が来ている」と結ばれていました。なんか、これも悠長なもの言いな感じがしますが、実際に内部的な抑圧と闘って骨のある報道されているようなメディアも見かけはするので、そういう報道の方々の人口が増えてマジョリティとなることを願います。そうなるように、わたしたちもメディアに対して反応をしないといけません(これまでに何度かテレ朝の報道ステーションと朝のモーニングバードで原発の問題をきちんと報道してくれたときに褒めるメールを投稿しました。3分で終わります。けなすだけでなく、よいことをしたら褒める!褒めて育てる!)。

ちなみに、この記事の筆者(金平茂紀さん)のプロフィールに「筑紫哲也 NEWS23」編集長、とあって、あーやっぱり筑紫さんの意思を継がれてる方なんだなぁと(涙目)。・・・では、今晩はこんなところです・・・。

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