自分はお世話になったことはないけれど、空港で "lost and found" を見かけるたびに、英語ってシンプルだなと頷いてしまう。「遺失物取扱所」と言われるよりなんだか lost and found だと、なくしちゃったけど見つかる感じもしませんか。

人間は忘却の生き物です。忘れないと新しいことを覚えられないという許容量の問題だけでなく、意図して忘れ去りたいことも多い。忘れたくない、忘れてはいけないこともたくさんある。ここは忘れっぽい自身の日々の「公共備忘録」です。また、立ち寄ってくれた方たちがここで何か発見をして、喜んだり怒ったり哀しんだり笑ったりしてもらえれば幸いです。

《 NOTICE 》ちなみに今はもっぱら脱原発ブログとして展開中であります

home

2011/06/28

反「反原発」とみぎひだり

「環境保護」といったとき、それは原生林伐採であったり、有害物質であったり、核・原子力から地球温暖化、様々な問題があります。サステイナブル(持続可能)に地球であるために、という一本ですべては繋がっていると思うのだけど、切り口(特化した問題)によって人々の賛同が得にくいものと、比較的誰にでも賛同が得やすいものと、あります。以前、NGO に勤めていたときに、海洋生態系の保護については、国内でセンシティブな捕鯨やマグロの問題を含んでいたために日本で正確な理解を得にくい状況が続きました。10年 20年前に比べたら、今は少し理解が進んできたと思いますが、この問題はとても複雑で、日本がターゲットになることが多いイシューだったために「欧米の環境保護団体がジャパン・バッシングをしている」などと問題の本質をすり替えられ、単に感情的に欧米の倫理(鯨食べるなんてひどいとか)の押しつけをして非科学的なことを言うでない!という流れを、水産庁と関連団体、国内メディアは作りだしました。その上、日本の文化に文句つけんな!ということで右寄りの方々がお怒りになったり、様々な問題の真相(既得権益や、調査捕鯨は膨大な税金投入のムダな公共事業であることなど)は議論にあがらず抑え込まれました。NGO 側としてもそんな感情的な浅い理由で問題視しているわけではなかったし、食文化にも伝統的沿岸捕鯨にも反対していないから食べたいなら食べてください、という感じだったのですが。

これをうけて、あまりに日本での活動が問題解決に向けて進む兆しが見えず、むしろこの問題を扱うことによって支持者が増えないダメージも受けている状態だったために、コミュニケーション戦略としてこの問題に国内でいかに取り組むべきかを外部にコンサルテーションを依頼したり、綿密な調査を行いました。その結果、日本の世の中には「反「反捕鯨」の人たちが多い」ということがわかりました。実際に捕鯨をゴリゴリに「推進」している人たちなんてわずかで、実際「どうでもいい」と思っている人たちが大半な中、問題自体よりも「反対反対!と声をあげているひとたち」に嫌悪感を持っている。問題自体はほんの表面的なことしか知らない、ただ反対運動が鼻につくから、あえて(そんな連中の言う)問題点は知ろうと思わない。この層は実は「賛成派」より厄介で、動かしにくいのです。賛成派も対極なだけで、問題に「興味がある」わけなので、無関心層よりも何かの拍子に反対派に転じることすらあります。しらけている層を動かすことが一番難しい。

とにかく、この問題についてはあまり語りたくないのですが、何を言いたいかというと、今の原発にもこの流れが起きているのではないか、ということです。そう、反「反原発」。ここまでのことが起きていても、斜に構えているのか、楽観視しているだけなのか、反「反原発」。放射能の影響を懸念する層に対しても、「騒ぎ過ぎでうるさい」と、これに似た反応が存在します(放射能自体の危険性どうこうよりも、反「放射能を気にしすぎる人々」みたいな・・・ま、これについてはちょっと置いとくとして)。ここまでの事故が起きたら中立という立場はあり得ないと個人的には思っていますが、「反対運動ってイデオロギーまみれだからなー、そうじゃなければ自分も参加するんだけどなー」あるいは「そんな運動のやり方では成功しない」など(でも優れた代替案があるわけでもないくせに)、高見の見物がてら、わけのわからんスタンスで批評して、動かない理由を人のせいにしているのが反「反原発」の基本姿勢のようです。また「感情的で、原発に代わるエネルギー代替案もなくて反対ばかり言ったって」という指摘もあるようですが、エネルギー政策に専門的に取り組み、代替案を提示しながら脱原発を唱えている団体は数多くあるし、彼らのセオリーは非現実的なものではない。本当に一部のメディアから「反原発」の動きをちょこっと見て、とりあえず流れに逆らうことがクールとでも思っているような幼稚な反応にしか見えません。

日本を原発列島に造り上げてきた自民党の石原伸晃幹事長は、14日の記者会見で「あれだけ大きな事故があったので、集団ヒステリー状態になるのは心情としては分かる」と発言して、批判を浴びていましたが、さらには「脱原発運動はアナーキーで、6/11の脱原発デモではバックに革マル派などがいる。そういう(極左の)人たちがいるのに普通の人が多く集まっている」という発言もあったようです(もう腹立つより「伸晃さん大丈夫?」と心配)。左翼のイデオロギー色を「反原発運動」にくっつけて、市民が参加しにくいものにしようとしているようです。よっぽど民衆が結束するのが怖いみたい、自民党。確かに強いイデオロギーの元に反原発の意思表示をされている方々もいるし、そういったグループと一緒にデモに参加したくないと思う方もいるのだと思います。でも今この状況下で「反原発は左翼臭い」とすら感じていない「イデオロギー無意識派」や、こんな切迫した事態にそんなこと関係ない「生命の問題に右左もない」派が大半なのではないかと思っています。この期に及んで、そういったこれまで何の政治的運動に関わったことがないけど 3.11以降に立ち上がったフツウの人たちを、「リベラル左派」が云々と(例文:「小出裕章氏の発言を鵜呑みにするリベラル左派との乖離がすごくて」など)わざわざ分類する文をウェブ上で見かけました。ここまでして左や右に「分けたがる」行為って一体・・・。「そんなことにこだわってる間に子どもが被曝が進むんじゃいっ!起きてー!」と肩を揺さぶってあげたくなります。ちなみに右派でも(自民党のように中途半端な保守ではなく)結構ファンダメンタルな方たちは、彼らの考え方に基づいて「反原発」を唱えていたりするようです。本当に国と生命を思えば、どう考えてもそうでしょうに。

この今、そんな風に何かの意図のもとに左や右に仕分けして運動の拡大を妨げたり、簡単なジャッジで反「反原発」的無責任なスタンスをとり傍観者になることは罪です。とにかく、一部の人々には何か大きな目的(社会主義にしたいとかね)が今の「反原発」の奥にあるのかもしれないし、斜に構えないと生きられないような個人的問題も抱えてるのかもしれないけど、今はそれどころじゃないんです。それどころじゃ。小さな何かに属する者としてでなく、人間として、意思表示をすることが最重要な気がするのです。

【 追記 】
関連して「無関心層」には心が弱い方たち(現実を受け入れたくない、忘れたいから関わりたくない)もいるだろうな、と思っていたところ、精神科医の香山リカさんが、心と今の状況との間にシールドを設けてしまう(原発について考えたくない・現実のできごとと思わないことにしたい)「解離」という心の防衛メカニズムについて記事を書いていた。もうひとつ:「起きてしまった現実を「なかったこと」にして乗り越えられるのか」

【 追記 7/7 】
今日、Twitter で見かけたある男性のつぶやき「今回、脱原発が果たせるとしたら、子を持つ母親の力だろう。男はどうしても世間のしがらみから離れられないし、右だの左だの理屈が多すぎる。もうゴタクはたくさんだ。言葉を費やすよりも行動だ。」

【 追記 9/19 】
鈴木邦男さん(一水会顧問)が「脱原発運動で「右」と「左」の共闘を考える」という記事を書かれていて「〜何を主張するか、よりも、ときに右や左といったイデオロギーの方が優先されてきた日本。でも、穏やかな暮らしを営みたい、子どもたちに未来をつなぎたいという想いに、右も左もあるはずがありません」とも述べられています。右から考える脱原発、興味深し。

0 コメント: