もうひと月ほど前の話になりますが、村上春樹氏がカタルーニャ賞受賞スピーチで、原発事故について、彼自身が脱原発をサポートするかたちで、触れたことが話題になりました。
彼が音楽以外で何かに対して(特に政治的な事柄で)スタンスを明確にするのは珍しく、結構な決断がいったのではと感じたけれど、これだけのことが起きていて、自身の「影響力」を国をマシな方向に導くために行使しない方がふざけている気がします。彼自身が負っていると感じたこれまでの電気に対する無責任さを、この大きな発言によって相殺しようとしたのかもしれない。だとしても、それをムシのいいことだとも思わないし、むしろこのエネルギー問題において、過去の罪をこれからの決断や行動で償っていく作業は、日本の大人全員が行うべきだと、個人的には思っているくらいです。
罪、といったけれど、この原発問題においての「わたしたちの罪」について、考えさせられる2つのスピーチを紹介します。
村上春樹さんのスピーチから抜粋(全文は上記のリンクより):
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(前略 ... )広島にある原爆死没者慰霊碑にはこのような言葉が刻まれています。
「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」
(前略 ... )広島にある原爆死没者慰霊碑にはこのような言葉が刻まれています。
「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」
素晴らしい言葉です。私たちは被害者であると同時に、加害者でもあるということをそれは意味しています。核という圧倒的な力の脅威の前では、私たち全員が被害者ですし、その力を引き出したという点においては、またその力の行使を防げなかったという点においては、私たちはすべて加害者でもあります。
今回の福島の原子力発電所の事故は、我々日本人が歴史上体験する、二度目の大きな核の被害です。しかし今回は誰かに爆弾を落とされたわけではありません。私たち日本人自身がそのお膳立てをし、自らの手で過ちを犯し、自らの国土を汚し自らの生活を破壊しているのです。どうしてそんなことになったのでしょう?戦後長いあいだ日本人が抱き続けてきた核に対する拒否感は、いったいどこに消えてしまったのでしょう?私たちが一貫して求めてきた平和で豊かな社会は、何によって損なわれ、歪められてしまったのでしょう?
答えは簡単です。「効率」です。efficiencyです。
原子炉は効率の良い発電システムであると、電力会社は主張します。つまり利益が上がるシステムであるわけです。また日本政府は、とくにオイルショック以降、原油供給の安定性に疑問を抱き、原子力発電を国の政策として推し進めてきました。電力会社は膨大な金を宣伝費としてばらまき、メディアを買収し、原子力発電はどこまでも安全だという幻想を国民に植え付けてきました。 そして気がついたときには、日本の発電量の約30パーセントが原子力発電によってまかなわれるようになっていました。国民がよく知らないうちに、この地震の多い狭く混み合った日本が、世界で3番目に原子炉の多い国になっていたのです。まず既成事実がつくられました。原子力発電に危惧を抱く人々に対しては「じゃああなたは電気が足りなくなってもいいんですね。夏場にエアコンが使えなくてもいいんですね」という脅しが向けられます。原発に疑問を呈する人々には、「非現実的な夢想家」というレッテルが貼られていきます。
そのようにして私たちはここにいます。安全で効率的であったはずの原子炉は、今や地獄の蓋を開けたような惨状を呈しています。原子力発電を推進する人々の主張した「現実を見なさい」という現実とは、実は現実でもなんでもなく、ただの表面的な「便宜」に過ぎなかったのです。それを彼らは「現実」という言葉に置き換え、論理をすり替えていたのです。それは日本が長年にわたって誇ってきた「技術力」神話の崩壊であると同時に、そのような「すり替え」を許してきた、私たち日本人の倫理と規範の敗北でもありました。
「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」私たちはもう一度その言葉を心に刻みこまなくてはなりません。
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「六ヶ所村ラプソディー」「ミツバチの羽音と地球の回転」など原発問題をえぐったドキュメンタリー映画の監督である鎌仲ひとみさんが、今年4月に行った講演でのトークから抜粋:(ほぼ全文の書き起こしと動画は上記のリンクより)
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(前略 ... 森達也さんの)地下鉄サリン事件を扱った映画の中で、どうしても忘れられないシーンがある。 今回の福島の事件でもこのシーンを思い出した。 サリンを吸って階段で倒れたり苦しんだり、くの字になっている人たちを、次のサリンをまかれなかった電車が着いて、ばーっと降りてきたサラリーマンが、「ちっ」といって苦しんでいる人たちをまたいで、仕事に急いで行ってしまったんです。
善なるもの、会社員として会社に遅刻してはいけない、ということが、そこに倒れている人に「どうしたんですか?大丈夫ですか?」と声をかけることより優先する、そんな社会に自分は生きていて、これは恐ろしいことだな、と思いました。
今回よく、テレビに出てくる原子力保安院の人たちとも「六ケ所村ラプソディ-」をつくる中で密接にお付き合いがありました。 みんなとてもいい人たち。良いお父さんなんだろうと思う。
(略 ... 原子力にまつわる様々な現実を)見て見ぬふりをする人たちがたくさんいて、原子力は絶対すすめる、原子力は絶対安全・・・という土台、テーブルの上でしかものを言えないということが横行してきたんですね。それを一生懸命進めている人たちは、倒れている人たちをまたいでいく、仕事熱心で、まじめな、自分の家族のために一生懸命稼いで働く、そんな人たちなんですね。 それは、私だ、と。
わたしは「六ヶ所村ラプソディー」を作ったときに、この劣化ウラン弾を生み出してきたのは、私が日本で電気を使う暮らしだったと気がついたときに、イラクの子どもたちを殺しているのはだれだ・・・私だった。私がそこに加担していたのだと気づいたときに、私が私自身を撃たなければいけない、と。それはすごく難しいことなんですね。
今たくさんの人が、「放射能がこんなに出ても安全だ」と、本気で信じているとは思えないんですけど、そう信じたほうが、今までの暮らしをあきらめなくていいから、ただ、だまされたふりをしているだけなのかも、しれない。でも、私たちは、メディアリテラシー、エネルギーリテラシー、メディアを読み解く力、エネルギーについて学ばないと自分のいのちを守れないと、思うんですね。
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「わたしたち」と言うな、日本政府や東電や推進派のせいでこんなことになっていると言われる方もいるかもしれません。でもこの国は、わたしたちでできている。罪がないのはそんな大人のつくった社会に暮らさざるをえない子どもや動物だけです。311 以前と以降では確実に世界は違うのに、一見普通にまわっている日常の風景が危機感を鈍らせ、問題の所在をくすませています。「忘れちゃダメだ、あんたにも責任あるんだよ」なんて言い続けてたら、友だちをなくしてしまう気もしてきた。「道徳の授業かよ」と引かれる気もしてきた。
なんでもいいけど、わたしは、誰かを責める前に、自分が行動しようと思う。
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