自分はお世話になったことはないけれど、空港で "lost and found" を見かけるたびに、英語ってシンプルだなと頷いてしまう。「遺失物取扱所」と言われるよりなんだか lost and found だと、なくしちゃったけど見つかる感じもしませんか。

人間は忘却の生き物です。忘れないと新しいことを覚えられないという許容量の問題だけでなく、意図して忘れ去りたいことも多い。忘れたくない、忘れてはいけないこともたくさんある。ここは忘れっぽい自身の日々の「公共備忘録」です。また、立ち寄ってくれた方たちがここで何か発見をして、喜んだり怒ったり哀しんだり笑ったりしてもらえれば幸いです。

《 NOTICE 》ちなみに今はもっぱら脱原発ブログとして展開中であります

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2012/09/18

大衆運動と報道

朝日新聞のデジタル版に、TBSの報道局の方が書かれた『日本のテレビ局はなぜ反原発の動きを報じ損ねたのか?』というとても興味深い記事が載っていたので一部引用してダイジェスト版で紹介したいと思います。消えてしまう前に本当は全文転載したかったのですが、禁じられているので(全文はこちらから)。

表題のことについては、ずっと落胆していました。それをメディアの中の人が提起してくれたことは希望が持てる反面、やっとですか・・・という気持ちも。

「一色に染まりがちと言われている日本のマスメディアにおいて、首相官邸前や各所で展開されている脱原発、原発再稼働反対を訴えるデモ・集会をめぐっては、メディア間にはっきりとした扱いの違いがみられる ... この違いはどのような理由によるものなのか」として;新聞では、読売・日経・産経は明らかに脱原発の市民運動に対して「抑制的、あるいは露骨な嫌悪さえ滲ませている」報道、逆に、東京・毎日・朝日は「今回の事態に一定のニュース性を見出して、比較的大きく報じていた。とりわけ東京新聞は、紙面を大きく割いて集会・デモの様子を詳報している。」と。東京新聞の論説委員の長谷川幸洋さんもTwitter で日々原発問題に鋭く切り込んでいるし、(ほぼ)原発の特集枠もあって東京新聞の吹っ切れ方(?)は粋です。テレビでも温度差が各局の間に確実にあり、「同局のなかでも番組によって、さらには曜日によって違っている」と述べられています。テレビを見ないのでわからないんだけど、確かに TBS とテレ朝(特に報道ステーション)は比較的フェアな印象です。

暴徒化するような蜂起でなく、万単位の市民が「非暴力直接行動」という形で整然と街頭に繰り出し、しかも週に一度のペースで集っている。それが「有力新聞において全く無視されている事態に異様なものを感じる」という筆者の意見にわたしも同意です。

311前の "原発ルネサンス期"(原発が地球温暖化抑止になるとして - 本当はならないんだけど - 全世界的に原発推進を疑問を呈さなかった時代)には政府の国策に添った報道が席巻し、ルネサンスと呼ばれる時代以前からのことではあるけれど、脱原発の集会や運動にメディアは冷淡であり、市民の「異議申し立て」がニュースになるようなことは滅多にありませんでした。そこで起こった原発の過酷事故。チェルノブイリのときにも反原発運動は起きたけれど、国内でのこの事態に、切迫した市民が当事者性を抱えて本気で抗議に押しかけている・・・「その「本気度」が反映されて、参加人員の急激な拡大、運動の形態の自由な広がり、SNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)経由の圧倒的な情報の共有、主催者としての政党・労組の後退などいくつものニュース要素が登場してきた。そのことに既成メディアであるテレビは気づいていただろうか?それまでの10年余りの報道の日常感覚に埋没して、「どうせデモやるああいう人たちでしょう」というような慣性・惰性に支配されていなかったか?」・・・ここで筆者は重要な指摘をします。テレビの編集長クラスに 311前の10年(失われた10年)ほどの間に刷り込まれた大衆運動軽視の感覚に色濃く影響された世代が多く、「換言すると、スリーマイル島、チェルノブイリ、JCO事故直後に報じてきた異議申し立ての動きの価値を、これらの世代に継承できなかった僕らの世代の責任」もあるだろうと。

また、「後続世代の大衆運動、社会的な異議申し立てに対するアレルギー、嫌悪感、当事者性の欠如には凄まじいものがある。デモや社会運動という語にネガティブな価値観しか見出せなくなっているのだ。これはおそらく日本的な特殊現象であり、かなり異様な事態である。欧米では、言うまでもなくデモは権利」と言及し、そういった彼らも、アラブの春など国外の大衆運動についてはポジティブな評価を与えている、という指摘も。日本では爆発的な印象こそないけれど、諸外国の昨今の革命に似た動きになってきていると思うのですが。やはり Twitter などの影響は無視できないと思うのだけど、メディア側がいまいちそのスピードに乗り切れていないのかなぁという感じも。

そして根本的な問題点で、日本のメディアのスタンスとして、国民よりも権力側に近い感覚を持つ「官尊民卑」の思想があり、デモの報道の際も警備する側の立場に報道機関側が同調していると、NY Times 東京支局長のコメントの引用文を交えて述べています。(この "「官尊民卑」がもたらす取材感覚の欠如 " の項だけでも、是非原文で全部読んでみてください!お願いします!って誰に頼んでんのかわかんないけど。)

最後に、首相官邸前抗議に 5万人近く集まった日にも取材クルーをまったく出さなかった NHK に対し、どうせ NHK もどこもヘリを飛ばしてこの様子を記録してくれないだろうと怒り諦めた市民によるカンパで、その翌週に民間(「正しい報道ヘリの会」)でヘリを出して報道・撮影がされたという逸話を紹介し、メディアの情けなさについて触れたあと(わたしもオンタイムで Twitter でこの件を追っていましたが、本当に日本のメディア情けねえなぁとつくづく思った)「NHKの現場の記者たちのなかにも、息苦しさを感じている人たちがたくさんいる。彼らは今、声を潜めている。組織の論理が記者の良心を押し潰しているのだ。」と、若干ディフェンスに入りつつ「メディアに関わるひとりひとりが考えるべき時が来ている」と結ばれていました。なんか、これも悠長なもの言いな感じがしますが、実際に内部的な抑圧と闘って骨のある報道されているようなメディアも見かけはするので、そういう報道の方々の人口が増えてマジョリティとなることを願います。そうなるように、わたしたちもメディアに対して反応をしないといけません(これまでに何度かテレ朝の報道ステーションと朝のモーニングバードで原発の問題をきちんと報道してくれたときに褒めるメールを投稿しました。3分で終わります。けなすだけでなく、よいことをしたら褒める!褒めて育てる!)。

ちなみに、この記事の筆者(金平茂紀さん)のプロフィールに「筑紫哲也 NEWS23」編集長、とあって、あーやっぱり筑紫さんの意思を継がれてる方なんだなぁと(涙目)。・・・では、今晩はこんなところです・・・。

2011/07/14

げんぱつ広告批評

マドラ出版の「広告批評」が休刊になったのはいつだっただろう。2009年か。随分前の気がしていたけどそんな経ってないんだ。広告ジャーナリズム、クリエイター向け雑誌とされていたけど、カルチャー全般を鋭く切っていて粋でした。バックナンバーがいくつか捨てられずに本棚にあります。その「広告批評」の編集長といえば、天野祐吉さん。天野さんの広告批評はまだ終わってなかった!うれしい!しかもつっこむ切れ味衰えず!

・ブログ:天野祐吉のあんころじい

天野さんを久々に見て(会ってませんけどね)あー、ご健在でよかったー、と思ったのでした。この文脈でこんなこというのもほんと失礼なのだけど、先週、週刊現代かなにかの中刷りで「あの人が生きていたら、この今をなんというか」みたいな特集を見かけて、「筑紫哲也、忌野清志郎、高木仁三郎・・・」までは自分の想いと合致したんで覚えてるけど、あとは覚えてない(あと個人的には伊丹十三と井上ひさしと、灰谷健次郎と司馬遼太郎も入れてほしいところ)。亡き人たちが残したものは大きいけれど、死んじゃうとちょっとばかし美化されて、同じ発言でも受け取られ方が生きてるときと死んでからでは違ったりするし、当たり前だけど「今現在」については生の意見を聞くことはできない。自分の中に蓄積された彼らのメッセージやソウルを自分自身で引き出して、消化して、指針にしていかないといけない。それに比べて、今生きてる人から学ぶことの方が受動的にできるから、ちょっと甘えちゃうわけですが。数はいないけど、「ヒントをもらいたい」と思える、そんな人が健在であることが幸い。

2011/07/08

現代ビジネス・ダイジェスト

講談社「週刊現代」が出しているウェブマガジン「現代ビジネス」が最近アツイ。多少センセーショナル気味な見出しはあるし、インターネットメディアだからこそできる飛ばしようなのかもしれないけれど、腐ったテレビや大新聞に欠けているまっとうなジャーナリズムが少なくとも感じられるし、独自に検証する姿勢があって頼もしい。6/6 付けでリリースされた「捨てられた日本国民 - 政府は本当のことは教えない」にあたっては、6800も記事へリンクしたツィートがなされている。否定的な意見もあっての言及かもしれないけれど、多くは記事へのサポートを表す数と言っていいと思う。


以下、「現代ビジネス」のブックマーク(原発、被曝、放射線関連記事):

2011/06/13

埋もれてはいけない

以前から何度も「協調性バイアス/正常性バイアス」について言及してきました。簡単に言うと、なんらかの緊急事態が発生したとき、ひとりで遭遇した場合は逃げたり対処をしたりするのに、大人数で、しかも対処に消極的な人々に囲まれるて遭遇すると、何も行動を起こさないという心理状態。それに似たことで、先日ある雑記で「社会的証明の原理」という言葉を知りました。その原理は「他人が何を正しいと考えているかに基づき、物事が正しいかどうかを判断する」というもの。そしてそれは「状況が不確かであるとき」に機能し、他者の行動を手がかりにするとき、その他者が自分と似ていると思う場合にとりわけ模倣しがちなのだとか。このことは今の現状に多く当てはまる気がします。

原発事故が史上最悪のメルトスルーまでいった上に、状況がずっと不確かであるという恐怖の中でも、例えば「放射能は大したことない」というスタンスの人ばかりが周りにいれば「そうだよな、まだ平気だろう」と危機感を薄める人が大半であり、逆に「放射能は危険」と情報集めに熱心な人は、Twitter のタイムラインには放射線量と内部被曝の情報がずらっと並び、毎日意識の高いひとたち同士で情報交換をして、安全な食材や疎開候補地を探すのが日課なわけです。不安な中で、どんなスタンスのひとも確実性を求めて(でも確実なものは探しても存在せず)「そうだよね?これでいいんだよね?」の社会的証明を強めることしかできていない。原発の賛否もある意味そうです。

前出の雑記を書かれた方は、これは心理的な影響の話であって、何が正しいということではなく、こういう影響があることをわかっておけば、自分と相反する主張をするひととぶつかってもやり取りが建設的になるかもしれない、と結んでいました。これはとても大事なこと。大きな流れに声をあげられないひとの弱いところや習性を認めてあげて、話し合う。だけど、今の現実に当てはめたとき(放射能への懸念の問題にしても原発の問題にしても)「危機感を持っている側の人間(わたし自身)」としては、他人の心理状態まで考慮する余裕はなくなってきています。それは、呑気に「社会的証明」やら「協調性バイアス」に埋もれてしまったならば、結果、犠牲になるものが子どもの命や健康だったりするから。ちんたらしてたら被曝する!というのもあります。時間があるなら別だけれど。

自分の家族や友人以外の人たちだって本当は助けたい。そこを目指すのであれば、まさにこの「社会的証明」を使って、マジョリティを「脱原発派」「放射能は危険と認識する派」にさせるしかないわけです。安全 / 危険は水掛け論なところもあるので、その判断を強要するのではなく、やはりニュートラルな情報を多く提供していくということがひとつ(それなりに情報を得たらフツウは原発も放射能も No なはずなんだが・・・)、そしてポツポツと「私も実は心配だった」と立ったひとたちを繋げてネットワークを広げていく。隣の友人から、自治体、県、そして国の規模へ。「大丈夫、こっちの道であってる」と励まし合いながら。あと、その最初の立ち上がる前の段階で「他者が自分と似ていると思う場合にとりわけ模倣しがち」という特徴を考えると、プロ市民とか左寄りの方々でなく、フツウのお母さんや学生などが「動いている」ことを知らせることがより多くの同様の層を動かすことになります。で、その声をあげていることを可視化するためには、ネット上で声をあげるのもいいけど、やはりデモとかリアルでのアピールも必要なのかなと思い直すわけです。

311 から 3ヶ月目のおととい土曜日、全国各地で原発反対のデモやアクションがありました。わたしは子連れで代々木のエネルギーシフトパレードに行ってから、夜、新宿東口の集結場所に行きました。代々木はピースフルな感じだったけど、新宿はその土地柄のカラーもあってか、熱くストレートで泥臭いモノクロ写真な感じでした。おそらく数千人単位のものすごい人数でした。警官の配備が尋常でない数で(ここにこんだけ投入するなら凶悪犯罪者検挙しろと思ったけど)それに反応してか、学生運動の夜を思い出しちゃった風のアドレナリン出てるおっさんあり、歌い踊る若者あり、古参アクティビストあり、右あり左あり、欽ちゃんの仮装大賞かと見まがう大規模コスプレあり、音や叫びも乱れ飛び、なんでもありのるつぼと化していました。新宿だけでもかなりの盛り上がりと人数だったし、お母さんたちが地元でオーガナイズしたような集まりお散歩会みたいのもあったみたいです。意味は必ずある。全国でも集約すればものすごい同時多発アクションだったはずなのだけど、やはりマスメディアの反応は冷ややかなものでした。

そう、余談ですが、その新宿の喧騒の中でテレビ朝日のインタビューを受けた件。「デモ参加は何回目ですか?」「今日はお子さんとご一緒ですかぁ」などとしょーもない質問をしたあと、最後に「街がいつもと違って、騒がしくて、警察なんかも多くて、混乱してる感じはどう思われます〜?」と誘導質問があった。「うるさいしちょっと迷惑ですよね」の回答を期待したと思われる。思いっきり STOP PLUTONIUM TERROR と書かれた Tシャツきてるやつ(わたし)に聞いてんだもん、期待されても困る。こんなときに浅いジャーナリズムやってんなよ、と本当に腹が立ったけれど、とりあえず「もっとやればいいと思いますけど。日本人おとなしすぎると思うんですよね、もっとこういった動きがあって当然かと。その辺は警察の方にも協力してもらって・・・」などと答える。帰りの電車で、デモを過激なものと印象づけようとするマスコミや警察を皮肉ったことを言ってやればよかったと激しく後悔。「わかってたけれど、テレビの浅さを体験+確信した」とツィート報告したら「それオンエアされませんね」と誰かに返される・・・オンエアされたら驚き。下請けの制作会社だろうけど、あんなテレビ通販の売り子みたいな愛想を振りまく安いインタビュアーが報道の一部を担ってるんだね、それにも驚き。

2011/04/19

テレビが演出してくれる日常生活にて

やっと原発事故終息に向けての工程表が東電から発表されました。これまで具体的見通しというものが何もなかったので、やっと出たか、という感じですが、甘すぎるのでは(東電会長自身も「不確定要素が多い」と注をつけての発表)と早速批評されています。確かに、作業に支障をもたらす余震や高い放射線量など外的要因をあまりふまえていない「すべてうまく運んだ場合」のもので、そういったアクシデントがあったケースをシュミレーションしているのかというのを教えてもらえるとちょっと安心できるんだけどなー・・・悪い方に運んだら「想定外」なのかなー。

東京では、放射能の飛散の懸念もピークを過ぎ、あの地震も原発事故も夢だったのではと一瞬錯覚するフツウさが戻りつつあります。節電で薄暗い街角を見たり、余震を感じたり、スーパーで欠品がある棚を見て、現状を再確認します。被災地でなくても、この現状がつらすぎて精神的に耐えられず、わざとネガティブな情報をシャットアウトしている人もいるし、日々通常通り働くことで平静を保っている人も多くいることを考えると「通常通り」が大切なのもよくわかります。でも、これが続くとまた何ごともなかったかのように、直されるべきことが直されず、もとの震災・原発事故前に戻ってしまうのではというのを恐れています。なんだか「喉元過ぎれば・・・」の影が既に忍び寄っているような。強い余震の可能性は10年というスパンで警戒しないといけないとのこと。余震がないにこしたことはないけど、忘れるべきでないことを思い出させてくれるリマインダーとしては役割もあるのかな、と思ったり。

テレビはあまり見ないし、何も期待していないのだけど、テレビを見ると特に現実逃避感を感じます。バラエティ番組にも役割はあるはあるけど、日本のテレビは完全に娯楽メインであって、残念ながら信頼できるニュースソースや教育的役割を持つものではないようです。佐藤優さんも仰っていましたが、東電をはじめ電力会社10社と電気事業連合会が費やす広告宣伝費はすさまじい額で(あえて言わずとも普通にテレビや新聞雑誌を見ているだけで「よく見るな」と気づくくらいですが)その支出はトヨタも抜くほどだと言います。事故を詫びる CM や新聞一面広告を数千万、数億かけて打つくらいならその金で福島を助けろ!と言いたいですが、ともあれ、電力会社がスポンサーの地位についている限りは不都合な情報はテレビ、ラジオ、新聞雑誌からは出にくいということ。

芸能人の支援活動なども震災直後から話題によくのぼります。現場に行っての支援や、義援金寄付やチャリティー、歌を歌って励ますのも大切なことなのかもしれないけど、影響力のあるポジションだからこそ、未来のためにもっとエネルギー問題や政治に突っ込んだ発言をしてもらって、国をいい方向に動かしていく手伝いをしてもらえんのかな(逆に弊害もあるかもしれませんが)。ムリなんでしょうけど。一方、海外の俳優や歌手は環境問題へのスタンスや支持政党を明確に表明して、キャンペーンを行ったりします。日本の芸能人にあまりその傾向が見られないのは、意識が高い人があまりいないというより、そういった事務所やスポンサーのしがらみが大きいため、社会問題に下手に関わると仕事の存続に関わるようです。俳優の山本太郎さんはかなりのアウトローっぷりで「原発問題に触れると芸能界で干されるって知ってました?でも言ったる!」といった主旨のことを Twitter で叫んだ(たぶんつぶやかないで叫んだ)あと、高円寺のデモに参加して、その骨太の言動が讃えられていました。清志郎の時代には反体制ソングを発売したら即中止をくらっていましたが、先週だか斉藤和義さんが「ずっとウソだった」(自分の曲を反原発ソングにセルフカバーした)をネット配信して(マスメディア以外で)話題になっていたり。そんな理不尽な制裁を恐れずに声をあげる人、リスペクトです。

2011/04/05

ほんとの情報ってなんだっけ 2

今回の原発事故では、被災後しばらく「正しい情報が出ていない」というより、政府も関係機関も「確かな情報が掴めていない」状況でした。憶測に過ぎない情報もある中で、不正確なままでも迅速に発表するか、ある程度クリアになるまで待って発表するかは難しい判断です。福島第一原発に関して、政府にすら確かな情報が何もあがってこないから、自分で確かめるために菅首相は福島第一原発へ直接行ったし(東電の隠蔽体質もおそらく知ってのことだと思います)、東電に怒鳴ったし(当たり前)、一番最初の 20km圏の避難指示は比較的早かったと私は思いました(その後、現行の作業中に起こりうる突発的な事故を見込んだ範囲の見直しが積極的に行われていない気はしますが)。これが原発を今まで数十年にわたって疑念もなく建て続けてきた自民党政権だったらと思うと背筋が凍ります。恐ろしいことに、とにかく誰もよくわからなかった。わからないからといっても、リスクを想定して動くべきことはもちろん多くある(あった)し、事前と現行の事故対策の責任はそれぞれ(政府、東電や保安院や保安委員会など関係機関)にたっぷりあります。どうにかしろよ!と怒り心頭の隅で、これらの責任云々、対策云々を奥の奥までつきつめて考えると、わからないなら仕方ない、じゃあそんなわかんなくなるもん使うの止めようね、と諭したくなります。原子力の場合はやはり「暴走したときに人間の手でコントロールができないものは欲に任せて使ってはいけないんだな」ということに行き着く気もします(このことについてはまた別の項で)。

事故直後から「わからない」状況が長く続く中で(今もどうしていいかわかっていないようですけど)伝える情報が出ず、難解で専門的な分野であったために、教授や研究者はテレビにひっぱりだこ。元々テレビは教授が大好きで、彼らの言うことはほぼ間違いないという「裏づけ」に使われる存在として重宝されています。もう周知のこととなりましたが、彼らの中にも「御用学者」と呼ばれる政府に仕える原発推進派と、そうでない派がいるわけで、同じ専門家でも各氏が「信じるところ」が微妙に違います(余談メモ:今回の事故を受け、以前御用学者だった研究者のグループが手のひらを返して原発推進を陳謝したという記事(読売オンライン)が数日前にあり、事の深刻さを物語ってます)。それぞれ個人の信念に触るような発言は控えていたようですが、この期に及んで「この危機を乗り越えれば、日本の原発がすばらしいということを世界に証明できます!」とのたまるやつや、ここぞとばかりに自分の分析は絶対正しいと大興奮で説明する勘違い野郎など、クセのある方々もおられました。ネット上では御用学者一覧がつくられ、既に吊るし上げが開始されています・・・(気持ちはわかる)。テレビ局はどんな基準でその学者を選んだのか?スケジュールの問題などももちろんあるでしょうが、ここでもテレビ局(新聞同様)の性格が専門家のチョイスに出ていた気がします。TBS は
原子力資料情報室という脱原発系NPOの代表の伴さんをよく呼んでいたので、私は主に TBSのニュースを選んで見ていました(筑紫哲也さんが生きてたら何と言うやら・・・涙)。東電の経済的な地位(影響力)が落ちた今は、メディアも恐れずブームに乗って東電をたたき始め、今となってはどこも大差ないようですが、毎日新聞系(TBS)は中道左派の論調と言われるだけあり、以前から原発に関して疑問を呈する姿勢が多少ありました。全般的にテレビでは、特に流出する放射線量の影響ついて正しく読みにくい説明も多く、国民をパニックにさせまいという「配慮」のもと「心配ない」連発の専門家だらけで、最悪のシナリオの冷静な分析を誰も教えてくれませんでした。全国ネットは「東京が中心」の姿勢が隠せず、被災者の方々の悲劇を見せ物のように伝えた民放もあったりと、テレビに対して懐疑的な意見が増えているようですが、やはりテレビはアクセスが楽な受動的なメディアなので、幅を利かせています。

原子炉内部の状況や講じている対策、それを受けた見通しなどは大本営から出る情報しかありませんが、放射線量などの情報や予測、そしてこれからのエネルギー政策をどうするか(このことについて一番言いたくてこれ書いてるのになかなかそこに辿り着けない・・・)などは、オルタナティブの情報ソースからの発信も増えてきました。そこからまた正確そうなものを探して考えるのは、お勤め人にそんな余力はなく、難しいことかもしれません。海外メディアや NGO(できれば政府や企業と繋がりのない独立団体)、自分と「信じるところ」の近いジャーナリスト、独立調査機関など、ウェブを渡り歩かなくても参照する先を決めておけるといいと思います。それぞれ必ずと言っていいほど Twitterなどで配信をこまめにしているので、こちらが能動的にならずとも情報が得られます。海外のソースについては、よくデータの出典として出ている IAEA も、原子力の平和利用を監視する役割がありますが、原発は「平和利用」という位置づけで推進の立場の機関なので、データや発言がバイアスがゼロとは言えません(今日 IAEAの事務局長は「原子力懸念への対応が必要」と。撤廃すれば懸念も無くなるだろうに・・・)。こと原発事故に関しては海外と日本のメディアの論調には違いがあり、海外メディアはセンセーショナルだと日本メディアも反応し、その後政府も同様のコメントをしました。海外メディアは日本の大本営直下(記者クラブなど)の情報が日本メディアと同様にわたらなかったりするので、外国人記者クラブに比較的中立な立場の専門家を招いて話を聞いたりと独自路線でリサーチをして記事を書くので、異なった視点からの意見が見られます。「意見」というだけあって、それぞれのジャーナリストの私見が濃く入っていたりします。日本のメディアは多少それぞれの味付けをしながらも「事実」を客観的に伝えようというのが第一なので「危ない」とか主観的な表現はあまり見られません。あと「安全ありき」が海外メディアの基本姿勢、あと日本国民をパニックにさせまいという配慮も不必要なので、煽るような論調と言われました。その「度が過ぎる」予測報道に事実が追いついて、本当のことにならないことを祈ります。

様々な情報といえば、今回の地震を「人工地震テロ」と唱えるひとたちも出てきたようで、もうやりたい放題です。9.11のときも多くの陰謀説が出たし、こういうときには恒例です。
今年は 9.11から丁度10年なので、想像力豊かな方々が既に喜んで今回との関連陰謀説をご披露されているようですけど、そのイマジネーションを何か人の役立つことにつかってほしいなぁ。話を元に戻すと、9.11 の時にはアメリカ人(ですら)も事実を求めて CNN より BBC などの他国のメディア情報を集めるひとが多かったといいます。英語圏の人は読める国のニュースが多くていいですよね。ここ一週間ほど、日本のメディアは前より原発張りつきで状況をアナウンスしていないのが気になります。細野首相補佐官が2日程前に「放射性物質放出が止められる見通しが数ヶ月後」and「危機的状況は脱した」発言したようですが、そんな相反する見解(危機的状況脱してないやん!)が並ぶうちは、やはり他の情報ソースも見ておきましょうね。

2011/04/02

ほんとの情報ってなんだっけ 1

菅首相は今回の震災と原発事故を「戦後以来の最大の危機」と発言しました。今や身近になってしまった「被爆」という言葉に広島・長崎のことを思ったり、津波で壊滅した街を「空襲後の焼け野原」と例えるひともいたり、現在の「いつ何時抗えないもの(余震や放射能)に襲われるかわからない」という不安は空襲を恐れるそれではなかったか想像したり、何かと戦争と重なります。あとは外出する家族を玄関先で見送った後「無事に帰宅するだろうか」という思いが一瞬よぎったとき、私ですらこんななら、福島第一原発の現場労働者や自衛隊員、消防隊員などを家族に持つ方々にとっては、それこそ夫の出勤は出兵を見送る気持ちだろうなと思ったり(実際戦争を体験した方々に言わせれば、比べ物にならない話で、失礼にあたるかもしれませんが)。メンタルなことではなく、被災地の("マス"メディアでは報道されない部分で)「子どもが餓死寸前」「死体があふれて葬れない」というような現場は、きっと戦場と同じ凄まじさだと思います。もちろん戦時中と同じではないことの方が多いし、比べたりするのは不毛かもしれませんが、ひとつ、とても大きく異なることとして触れたいのは「情報量」です。国の検閲などが入って厳しく情報がコントロールされ、言論の自由もなかった時代と比べて、今は自分で情報を選択(発信も)できる時代だということです。

インターネットの情報過多で不安になったり、デマメールが来たり、テレビや雑誌の見出しに煽られたり、どれを信じていいかわからなくなるデメリットもありますが、そこはあえて戦時中と比較して言うと贅沢な文句かもしれません。日本史を置いておいて今現在の他の国と比べたとしても、日本はこれでも自由な方に入ると思います。せっかく選び放題なのだから、今のようなときこそ特に、自分で情報を集めて選び、考えて行動することが求められる気がします。そのためには情報発信者(マスメディアでも団体でも個人でも)がどういうスタンスや基本的考え方を持つ人たちかを、多少なりとも理解してから読み聞きをし、鵜呑みにせず、論調のベースを鑑みながら「おそらくこの辺がホントなのだろうな」という落としどころを自分で見つけなければいけません。政府に対しても同じです。批判的になったり斜に構えて冷笑的になるのとも違います。そりゃ面倒。メディアが正直で中立公正なら(そうしていると本人たちは思っているのかもしれないけど)そんな面倒なことしなくていいし、惑わされる人々も少なくなるんだろうけど、メディアも営利企業なのでまったく中立公正なわけにはいかないのだと思います。メディアリテラシーは日本人は低そうに見えるけれど、具体的行動に表れていないだけで、結構高いのではないかと思っています(そう信じたい)。

結果、とても大きな話になりますが「自分の信じるところがどこにあるか」「何が大切か」ということも関わってくるし、これまで人生の様々な経験が、情報の消化の仕方の判断基準になるのかもしれません。感覚的なものもあると思います。先日、テレビの原発関連ニュースを日中ザッピングしていた友人(主婦)が「NHKとTBS の論説委員はなかなか正しいと思うね」と評価をくだしていました(同意。特に NHK の水野解説委員は「NHK の良心」と密かに人気沸騰中)。比べてます。ひとつの情報源や表面的な情報に左右されて動揺したり、簡単に何かをあきらめてしまうのは残念なことです。ぶっちゃけ何でも自分で体験したことより推測や他人の判断(情報)に基づいて信じている事柄の方が多いわけなので、何でもホントのホントのところはわからない。だからこそ、自分の中の経験値や知識量に応じて多少それが流動的になってもいいから「オリジナルの判断基準」を常に持つ。それを軸に答えを求めようとする姿勢は「ホントのところはわからない」世の中を生き抜くために、とても大切だと感じています。特に原発の問題のように賛否のある事柄は、ちょっと注視しないとホントのところが見えにくいです。次以降の投稿で今回(今)のプレイヤーたちを出して私見を書いてみます。