自分はお世話になったことはないけれど、空港で "lost and found" を見かけるたびに、英語ってシンプルだなと頷いてしまう。「遺失物取扱所」と言われるよりなんだか lost and found だと、なくしちゃったけど見つかる感じもしませんか。

人間は忘却の生き物です。忘れないと新しいことを覚えられないという許容量の問題だけでなく、意図して忘れ去りたいことも多い。忘れたくない、忘れてはいけないこともたくさんある。ここは忘れっぽい自身の日々の「公共備忘録」です。また、立ち寄ってくれた方たちがここで何か発見をして、喜んだり怒ったり哀しんだり笑ったりしてもらえれば幸いです。

《 NOTICE 》ちなみに今はもっぱら脱原発ブログとして展開中であります

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2012/03/31

go green


3月も終わり。はやいなぁ。

今日は春の嵐。東京は朝からものすごい強風です。少しだけ高台になっている場所にある我が家は特に風のあたりが強く、常々ベランダにマイクロ風車でも取りつけたらかなりの発電してくれるんじゃないかと思って(本気で)検討しているのだけど。でも今日ほどの強風ならマイクロ風車そのものが吹き飛ぶんじゃないかという恐れも・・・。

ずっと前(もう8年くらい前かなぁ)にエルガ/ソーラーネットの桜井さんからソーラーパネルを一枚買って、独立系のインバーターを通して充電とかに細々と使っていたんだけど、2度目に買い替えた蓄電池(カーバッテリー)が切れてからしばらく放置状態になってしまっている。今こそ非常用電源として起動させておくべきなんだけど、国外に越す話もあるので今いち踏み切れないまま。今の家にずっといるなら絶対に発電源にマイクロ風車も加えて組み合わせてインストールしたいなぁ。屋根一面に取り付ければ、家のコンセントにつくった電気を流したり余った分を電力会社へ売電できたりしていいのですが、コスト的に/物理的に集合住宅で無理という人もベランダでちょこっと発電できます(その場合、日常的にそこから電力を賄うというより、ほんの少し補う+非常用電源のためにという感覚です)。うちも集合住宅なので、屋根ソーラーは難しいのだけど、少しでも東電からの電気を買わないために、アンペア下げたり、節電したり、ソーラーランプを使ったり、電気料金の自動引き落としをやめてギリまで払わないとか、ちまちまやっています。いつの日か(その日は近づいていると思うけど)電力会社を選べるようになるまで、しのぎたいと思います。

エルガの桜井さんはずっとずっと長いこと脱原発/自然エネルギー普及に務めてこられた NGO/自然エネルギー屋さんです。以前、仕事の関係で出会い、そのときはじめて「自然エネルギーの普及」という具体的なアプローチで脱原発を目指している方々がいることを知りました。その10年近く前にソーラーパネルを買ったときも、取り付け説明書に『原発の汚い電気を使わないために』と書いてありました。桜井さんは、国内での普及とともに東南アジアなどの途上国の電気がまともに通っていない地域などに「ソーラー発電の作り方/使い方」を伝授して資金援助をするプロジェクトに 90年代から取り組まれています。エルガのホームページでは「自然エネルギーは、人任せになった生活を自分たちの手で取り戻す道具」と定義しています。システムを組む「技術」を輸出して、材料の調達さえアシストすれば、自分たちの手で電気はつくれるのです。貧困の解消に食料や衣料をどかんと与えるのではなくて、働き口をつくり、働く術を教育するのと似ています。未電化地域と比べて考えると、原発事故などは電力を人任せにしすぎた結果。ソーラー発電などは、確かに電気系統などの知識は多少は入りますが、知るとそこまで複雑で特殊なことではないことがわかります。ソーラーは確かに高額なものですが、需要が増え供給量が増えればどんどん価格は下がっていきます(これまでも下がってきています)。

被災地を自然エネルギーで支援する「つながり・ぬくもりプロジェクト」も、エルガやレクスタ(自然エネルギー事業協同組合)の皆さんと ISEP(環境エネルギー政策研究所)が中心となって行われています。インフラが断たれた震災直後は温水や電力の提供を緊急支援し、今は自然エネルギーが復興の柱となるように被災地の雇用創出にまで繋げています。前回の投稿で、熱くひとりブックレビューをしてしまった「ふんばろう東日本支援プロジェクト」もそうですが、プロジェクト目標が具体的であればあるほど効果的な結果が生まれるんですね(当たり前だけれど)。サポートする側もサポートしたくなる。目標が大きすぎるときには、いくつかの小目標をその都度クリアしていくようフェーズ分けした方がいい。そんな理屈は置いといても、とにかくこの「つながり・ぬくもりプロジェクト」は(紹介が1年も遅れてしまいましたが)個人的に応援しています。

なぜ、今この話を思い出したかというと(ちょっとばかし飛ぶけど)脱原発ポスター展という脱原発ポスターのデザインを誰でも投稿できる(そしてご自由に印刷してデモなどでプラカードとして使ってね、という趣旨の)プロジェクトがあるのですが、そこへ昨年提供した "go green" のデザインが、今年の 1月にあった脱原発世界会議に向けて缶バッジをつくるので使わせてもらえませんか?とポスター展の事務局からお尋ねがあり(脱原発会議でもできあがったものを直接頂いていたのですが)今回少し余ったので作者さんへ、ということで、数週間前にたくさん送られてきたので・・・それがきっかけでした。ちなみにこの go green の信号機は「でんきのこれから」リーフレット(初版)の中で使っていたモチーフです。

関連:

2012/03/20

「すんごい仕組み」より抜粋

このひとつ前の投稿で紹介した「人を助けるすんごい仕組み」という本の中から、忘れたくないポイントの書きおこし(超個人的備忘録)です。

◆ 結局は「どう生きるか」という問題
「この悲惨な出来事を肯定することは決してできないけれども、あの出来事があったからこんなふうになれたのだ、と思うことはできる。それが僕らの目指すべき未来なのだ。(略)起きた出来事は変えられないが、出来事の意味は事後的に決まる。」

◆ リミッターを外すしかない
「すべてを失っても前を向こうとしている人がいる。何も失っていない僕らがやる気になれば、何だってできるはずだ(略)未曾有の事態には、未曾有の自分になるしかない。」
「構造構成主義の「方法の原理」によれば、方法の有効性は(1)状況と(2)目的に応じて決まる。そのための有効な方法がなければ、つくればいいのである。」
「最初に『このやり方じゃ無理だな』とか『ラチがあかないな』と直感したことはやりませんが、基本的な方向性として『いける』と確信したら『できるかどうか』という問いは立てません。『無理だ』とか言ってあきらめることは、いつだってできます。だから、それは最後の最後でいいんです。」

◆ 行政の壁、前例主義と取引コスト
「(行政は)断るという結論が先にあって、そのための理由をいろいろとつけているだけだったり、各部署をたらい回しにすることで話が一向に進まない --- なぜそのようなことが起こるのだろうか?(略)(行政が何かをするとなると)「責任」が生じる。前例があれば、何か問題が起きても「前例に従ったまでです」と前例のせいにできるが、ない場合は新たな仕組みを導入した当人までが責任を負うことになる。それを回避するために、前例がないから、と言って拒否することになる。 --- こうして「前例主義」が組織を蝕んでいく。(略)行政や大企業のような保守的になりがちな組織においては(新しい試みについて)周囲の人を説得するための「取引コスト」は膨大なものになる。他方で、新たな試みをしなければ、そうしたコストはかからない。リスクも責任も生じない。そのため、実現する努力をすることなく、やらない理由を探すことになる。

◆ 全員を公平に不幸にする「公平主義」
「有事においては「公平」が方法概念であることを忘れ、それ自体の遵守にとらわれることで、すべてを失った被災者をさらに苦しめることになった。それはこれまでの慣例とその成功体験、そして不公平な扱いに対して過度に敏感な市民からのクレームによって、行政は公平主義に染まってしまったため、と考えられる。(略)そもそも本来の行政の共通の目的は何かと問えば、それは市民を幸せにすることのはずだ。」

◆ 横のラインが社会を変える
(ツイッターについて)「政治って結局世の中を動かすことで、いままでは縦のピラミッドの上の人がパワーで動かすという図式だったと思うんですが、今回初めて横のラインでつながった(略)政治家の人もツイッターに入っている限り、そこでの話題や自分宛の言及(メンション)は気にせざるをえないということ。布のは端切れをもってしまったようなもので、影響を受けざるをえない。これはある意味で直接民主主義に近い形」
「例えば、原発を推進しようという人には絶対に票を入れないようにしよう!と大々的にキャンペーンを打つことで、原発推進なんて用意には言えなくなる。東電は上からのパワーでコントロールしてきたわけですが、横がつながって "市民意思機能体" として違う軸でのパワーを持てば、それにコントロールされることなく、市民が本当に考えていることを実現できる。」「2011年1月以降に、中東や北アフリカで革命が起きたのはおそらく偶然ではない。ツイッターとフェイスブックが統制不可能な横のラインをつなぐインフラとなり、難攻不落の独裁国家がひっくり返ったのである。(略)状況が違えば、いままで有効ではなかった「一人ひとりが声をあげる」という方法が有効になることもある。今までは声をあげても無駄だったかもしれないが、状況が変わったと言っていいだろう。」
「一銭のお金も動いていないのに、みんなが、なんとかしたいという気持ちで動いている」

◆ 強い意志の継承 --- 腐敗した組織に対抗する唯一の希望
「理想主義から入ると、それが崩れたときに、その反動で懐疑論やニヒリズムに陥ってしまうからです。人間も社会も完璧になるということはありえませんから、理想主義はいつか崩れます。だからニーチェは、いわば戦略的ニヒリズムという考えを打ち出します。あえて真理も完全な社会もないというニヒリズムを出発点とすることで、それでもいまよりはマシにすることはできる、といった形で、最終的にニヒリズムに回収されないようにしたわけです。時間を止めて固定的に考えると、一人ひとりの力はあまりに小さく無意味なように感じてしまいますが、時間というファクターを入れて考えるとそんなことはないとわかります。僕らですべてを完成させる必要はないんです。(略)僕らが少しでも進めておけば、そこを出発点として、子どもたちが、次の世代がさらに進めてくれる。」

◆ 5% にこだわらず、95% のところで迅速に動く
「税金も使っていなければ、給料ももらえない、守るものなんて、ないんですね。被災者支援のプロジェクトなのに、ごく一部の批判を気にして、助けられるたくさんの人たちへの支援をやめてしまったら、某行政と同じになる。(略)どんなことをしていても批判をする人はいますし、失敗する可能性もある。だから、常に完璧を目指すのではなく『5% は大目に見よう』と。」
「人間は 95% の人が賞賛してくれても、5人批判する人がいると、批判する人の意見にフォーカスし、20倍くらいの重みづけをしてしまう。そうすると批判者の意見に引きずられて、意思決定を謝ってしまうのだ。」

◆ 目的を常に共有
「目的を共有することは、活動が目的からブレないためにも重要となる。これは当たり前のことだが、実際にそれを徹底できることは稀と言っていい。」

◆ クジラより小魚の群れになろう
「クジラは巨大な図体ゆえに容易に方向転換することはできない。しかし小魚の群れなら、一瞬で方向を変えられる。僕らは一人ひとりは小さな魚でも、群れをなすことで、クジラに匹敵する機能を備えることができる。しかも、刻々と変化する被災地においては、魚の群れのようにときにまとまり、ときには細かく分散して、融通無碍に対応できるほうが、機能するのだ。」
※ まさにスイミー!わたしも昨年の春に「今こそわたしたちはスイミーの群れに!」と思い、その思いを込めてツイッターのアイコンをスイミーにしたのでした(思いっきし余談)。


2012/03/19

「人を助けるすんごい仕組み」

311 の国会包囲のヒューマンチェーンの抗議行動の帰りに、一冊の本を購入しました。ものすごく疲れていたのだけど、この日に買わなければならないと、ぐったりした体にムチ打ちつつ本屋へ。

「ふんばろう東日本支援プロジェクト」という全ボランティア(組織という組織はない有志の集まり)の被災地支援のプロジェクトについて、その代表である西條剛央さん(早稲田大学大学院 MBA 専任講師)が書かれた
というノンフィクション本。311 の数日前にとあるビジネスの行動心理学関係のメールマガジンで紹介されていたのに遭遇して、強く引きこまれました。糸井重里さんの帯のコメントの通り、震災の状況だけでなくあらゆる仕事の場で、間違いなく役に立つ本です。わたしが読まなければと思い立ったのは、先日も書いたように福島・原発・放射能の問題は日々考えてきたけれど、津波被災地のことはよく知らないと気づき、知りたいと思ったことと、上記のメルマガ内での内容の紹介で「凄まじい被災地の描写に対して、いちいち感傷に浸っていられないほどのものすごい「行動の集積」によって不可能そうなことを可能にしていく」という一行に、詳細をとても知りたくなったからです。わたし自身も感じていた、行政の危機対応のスピード感のなさや、団体・組織が大きくなればなるほど遅くなる決断や動き。それらの対極で、動きの鈍い行政や団体をすっとばして支援者と被支援者を直接つないで成功したというアクション。最近、西條さんはこの迅速で効果的なプロジェクトの結果を評価されて、日本赤十字社に助言を行う立場に。

その、本を紹介されたメルマガの中での「世の中のほとんどの "言い訳がついつい口から出てしまう人" はヒマなのだ(略)ヒマだから決定しないという決断をくだし、面倒なことは先送りにして、後から指摘されると無意識のうちに言い訳をする」という一文も「あ、自分やん」ということでギクっとしました。そして「本書で紹介される、プロジェクトに関わる人たちに、誰一人としてヒマな人はでてきません」と。(偶然出会ったこのメルマガ(上記リンク)も結構必読なのでご一読ください)

この本は 311 のあの日からはじまり、仙台で叔父さんを亡くされた著者が南三陸町に行き、プロジェクトを立ち上げていく過程を描きながら、有事にこそ有効な「構造構成主義」の考え方がポイントとして出てきます。カタそうですが、その時々の「状況」「目的」を把握し、それに合わせて方法論を決めるということ(聞いた感じ当たり前の)、それをしっかり行うだけ。いろんなことに通じると思うのだけど、目的って段々ブレていくんですよね(だから確認は大事)。こういったヒントや、昨今のソーシャルネットワークを使って具体的に人々が繋がっていった/繋げていった支援の "すんごい" プロセス("すんごい" ってホント糸井さんぽいなぁ)。一気に点が線となった、プロジェクトに関わった本当に多くの人たち。そして津波の爪痕、メディアが伝えなかったリアルな惨状、奪われかけたいのち、奪われたいのち、それを乗り越えて強く生きている方々の暮らし、気持ちが出てきます。そしてずっと原発のことはずっと出てこないのですが、最後の最後に【原発問題の解き方と答え】という項があり「原発は是か非か」ではなく、双方の関心を織り込む形で「原発をなくしても問題が生じないようにするには、どのようにすればいいか?といった形に問い方を根本的に変えるという点が重要、などと述べられていて、そののちに、様々な現実的な状況を鑑みて、原発に頼らない社会へ進むべきと(というか「答えは出てしまった」と)書かれていました。また「個々人レベルでは誰もがおかしいと思っているのに、一部の利権などから社会や組織全体は反対方向に進んでしまうという現象は、組織が死に至る病」だと。これを聞くとまた戦時中の日本政府とかぶるなぁ。

驚く数のプロジェクトを行われた西條さんが、最後に「特別なことは必要ない。本当は絶対によくないと思っていることはせず、こうすれば社会はよくなるのにと思っていることをするだけで、僕らは確実に幸せな社会に近づいていくことができる」/「一人ひとりの力が合わさることで、世の中は変えられるんだということを広めていきたい。それが子どもたちのための未来をつくる、僕らの役目だと思っている」と言われると、エネルギーをもらえます。

この本の印税は全額復興支援へ使われるそうです。今一番おすすめの本です。

(本のページの端っこを沢山折りすぎてしまったために、かさが増えてしまった・・・。忘れたくないセンテンスを書き出しておきたいのだけど、毎回「一回の投稿長すぎ」というクレームもある(?)ので、それは次回に。)

ふんばろう東日本プロジェクト "誰でもできる復興支援はここにある" は継続中です。

【 3/19 追記 】この本を読んだ理由のひとつに、津波被災地のことをもう少し知りたいというのがありました。その点でも、この本から知ったことは多かったのですが、先日「母を捜して -陸前高田から - 」というとあるカメラマンさんの実話を記録したサイトを見つけ、そこでも津波で家族を失った方々のリアルな日常が綴られていて衝撃を受けました。ここに共有したいと思います。綴られているショッキングな出来事が彼だけでなく何千という方々に同時に起こったということが、いまだにうまく想像できません。ただ、知ることはできるから。

2012/03/15

最大のプロパガンダ vs デモ

核問題を追い続けているドキュメンタリー映画監督の鎌仲ひとみ監督が「国の最大のプロパガンダは《何をやっても、どうせ社会は変わらない》と信じ込ませることだ」と発言されているのをどこかで読みました。本当にそうだと思う。しかしながら、原発事故以降、原発はいらないと声をあげ始めた、これまで運動に携わっていなかった普通の人々を見ていると、今までのぬるま湯だった日本がやっと沸々と適正温度になったかと思います。以前、環境保護団体で勤めていたときに、あまりの日本での活動のやりにくさ(人々の理解の得にくさ、社会問題を自分のことだと思わない当事者意識の低さ)に「日本人はアパシー(無関心)の塊だ」と他国の同僚にぼやくと、どこの国も無関心層はいるよと言っていたけれど、日本社会の成熟度の低さは格別という思いは変わらなかった・・・今も変わっていないのだけど、311 以降絶え間なく続いているデモを見ていると(参加していると)、今こそもしかしたら日本は大人になれるのかもしれないと僅かな光が見えます。


これまで日本でも革命を叫んだ運動がありました。60s の学生運動がポシャったり、チェルノブイリの事故が発端の反核運動も長続きしなかった関係で、歴史的に市民運動全般をマイナーで力のないものとして扱う(んなことやったってどうせダメだよ的な)流れがあります。あと、"打倒"とか "阻止" とか圧力的な言葉連呼で鉢巻き巻いちゃったり、内ゲバが起きた過去の印象で「デモは怖い」といったネガティブイメージを持つひともいます(それを持ち出してデモに来ないような人は完全に言い訳だと思うんだけどね)。今の脱原発運動が一過性のブームなのか、それは何年後かに振り返ってみないとわからないけれど、これまでと違う何かを感じるのは、Twitter やフェイスブックなどのインターネットを通した新しいネットワーキングが追い風になって吹き続けていることです(これは改めて言うことでもないのだけど)。先のエジプトの市民革命もそういった新しいツールを通してのネットワークの影響が強みとなり、それに加えて実世界での口コミなどが加わって伝播していったと聞きます。

今現在、首都圏で行われているデモはかなり多様化してきているのですが、そのカラーに注目して、いくつか記録しておきます。様々なデモといっても単に主催が違うというだけでなく、同じ最終目標「脱原発」を掲げながらもそれぞれ微妙にアプローチが違うのです。昔から反原発運動をしている原水禁などの古参には何ら変わった動きはないのだけど、感情的かつ戦略的に、常に模索/変化しながら活発に動いている中学三年生のような、熱くて正しくて悩み多きデモは本当に興味深い・・・その1つは Twitter から繋がった人々で興されたその名もツイッターデモ Twitnonukes です。主に東京では渋谷・原宿エリアで行われることが多いデモですが、どこでも人を集めるツールとなれる Twitter が軸なので、全国各地で(それぞれ違う人が主催で)行われてきています。デモ自体をまとめるために誰かしら中心的メンバーはいるわけですが、リーダーというリーダーをわざと設置せず、Twitter のフォロー関係でやんわりとつながった個人の集合体としてデモを行っています。この「やんわり」がポイント。あくまでインディビジュアルの集合体であり、なんのイデオロギーもなく既存のいかなる団体が組織するものでもない、デモは「箱」であり「無色」であれ!その中で個々人がシンプルに主張をすべき、という主義。よって、労組左派の幟があったり右翼の日章旗があったりするのはご遠慮願いたく、「脱原発」のたった一点で、プラカードだけにしてほしいと。関係ないもん持ち込まず「原発をなくす」シングルイシューで集おうよ(=そしたらイデオロギー付きの運動に嫌悪感を持つ層もすんなり入り込めるから、活動する人々の数が増えるよ)と。これは目的がブレがちな運動というものに「なんのためにやってんだ」と常につきつけてくれる真っ当なポリシーだと思います。「デモのためのデモにならないこと」「自己満足にならないこと」これらのスタンスにはとても共感。こじんまりとしているけれど、柔らかな印象の中に力強い怒りを持つ、新しくも正統なデモです(とわたしは思う)。

そして、間口を多くのひとに開いているのは同じであるのに、右も左も自民も共産もなんでもかんでも全部ウェルカム!楽しくなければ人も動かないぜ!というもんのすごいローカルデモが杉並でありました。2/19 に杉並で行われた有象無象デモです。ローカルと言っても全国各地から 6000人ほどの参加があったとのことで(わたしも行ったけど)かなりの賑わいでした。(何を隠そうわたしも 10年ほど好んで暮らしてた)杉並は元々市民運動が盛んでリベラルな風潮がありました。昨年 4月に高円寺で勃発した「素人の乱」の大きな反原発デモの流れをくむもので、完全にカーニバル(脱原発替え歌カラオケカーが出たり、酒を売りながら練り歩く移動式バーがあったり、お菓子配ってたり、最後には解散地点でフォークダンスも踊ってた)で、とんでもないそのカオスさを魅力としていました。それを邪道(?)で真摯でないと批判する声もあったけれど、脱原発に関わる入り口としてそれが入りやすいと感じる人も多くいると思うし、ニーズがある限りそれもアリだろうと思いました。この杉並デモのはじけ方は本当にすごかったし、あれを越す「寛容さ」を持つデモは他にはないでしょう。

そして、このデモの特徴は何といっても「ローカル」であること。地元をガツンと巻き込んでいるので、元々つながりのある高円寺・阿佐ヶ谷(商店街が多い)エリアの商工会やら市議やら住民同士が運営に関わって盛り上げているのです。デモの実行委員は杉並区民有志。沿道でトイレを貸し出すサインを掲げるおばちゃんも見かけたし。最後には商店街の飲み屋などでデモに行った人は割引になる「デモ割」なるものも発生していました・・・もう、わけわかんない。この大風呂敷を広げた話題性に加えて、PR がとてもうまく、早々から著名人(杉並にまつわる有名人から関係ない人まで)を賛同人にしたり、彼らの Twitter で言及してもらったりと告知に余念がありませんでした。ちなみに「有象無象(の集団)」のコピーは、杉並在住のドイツ文学者で翻訳家の池田香代子さんが名付け親のようです。

杉並デモも Twitter デモも「小異を捨てて大同につけ」という点では同じ。イデオロギーのあるデモではどうしても参加者が決まってしまうため、組織動員でない、器に徹するデモの重要性が感じられます。左寄りのものと思われていたデモも、今では右デモ(美しき日本の山河が汚された、国民の健康が損なわれたことに怒る民族派右翼の方々による「右から考える」脱原発運動)もあるくらいな昨今。それはそれで必要とするひとがある限り、在っていいわけで。

かつて、こんなにデモにバラエティがあったでしょうか。わたしはそれが希望だと思うのです。先日の 311 に日比谷で行った大きなデモ「東京大行進」をオーガナイズしたのは、首都圏反原発連合というこの様々なデモ母体の集合体でした。手を取るべきところは繋いで一緒にやっているわけです。

同じ脱原発を志すひとたちでも(以上はデモの話でしたが)細かいことになってくると、意見の相違が出てきて仲間割れしがちです。真剣であれば真剣であるほど「こうすべき」が増えて、内ゲバになる。それぞれの角度ややり方の尊重が大事ということにつきるわけですが、これをわたしは「役割分担」とよく呼んでいます。意見の違いというと叩き合いになるけれど、大目標を達成するための役割分担だと思えば。初級のソフトなデモも上級のハードコアなデモも、需要はある。内ゲバは原発を推進する側の思うつぼ(脱原発運動を連帯させないために推進派が仲を割らせるスパイを送り込んでいるなんて話もちらっと聞いたことあるけど、どこに送ったんだか)そんなことしてる暇ないし。炭水化物を摂取するのにごはんで摂るか、うどんか、パンで摂るかみたいなもんで、「炭水化物が胃に入る」目的さえ達成されれば、自分の好きなやり方でいけばいいと思う。他人のやり方や好みを無闇に否定するのはよくない。そっちはカロリー高いからこっちがいいんじゃない?とか事実を比べる議論はあっていいと思うけれど。

デモ分野内の「役割分担」もそうだけれど、脱原発運動全体にも役割分担はあります。自治体に訴える人、国に訴える人、電力会社を集中的につつく人、地方でやる人、東京でやる人、自然エネルギーの拡大からやる人、PPS で脱東電を広める人、原発のコストを数える人、放射能の拡散予測をする人、原発の輸出を叩くひと etc.・・・この「役割」の多様さとそれが日本全国各地で始動していることを実感したのが 1月に横浜で行われた脱原発世界会議(会議というかアクション見本市だった)。それだけでとても意味があったイベントでした。様々なアングルからのアクションたちはお互いを受入れ、ヨコ同士でつつき合わず、常に前に向いて進まないといけない。

昨年末にマガジン9条の企画で聞いたイルコモンズさんと素人の乱の松本哉さんのトークの中で、デモに盛んに参加されているイルコモンズさんが言われていて共感したのは「デモだけでは何も変わらない。デモだけで社会が変わったらその社会はアブナイかも。いろいろな運動(デモあり、不買運動あり、選挙あり、署名あり)とアクションの相互作用、セットで、変化が起きる。どれも必要。ひとつのアクションに成果を期待しすぎるのは危険。すぐに成果がでないと諦めやすくなるから。」と。そして「デモで戦争が止まったことはないんです。だけども戦争を拡大することを防いでいるんです」と。デモで原発が止まるかといえば、止まらないのかもしれません。でもそれが民衆に与えられた数少ない抗議手段であり、いくらか効力が(それがどのくらいかは未知なのだけれど)あり、目標に近づくための役割を果たしているとわたしは思うので、これからも足を運びます。

残念なのは、これはおそらくわたし自身が運動の内側にいる人間であるから、様々なムーブメントが活発だと思っているのであって、外側のフツウに運動と無縁に毎日を送っている人から見れば何も起きていないに等しいのかもしれないということ。その垣根は、いつとれるのか。日本のメディアが改心してくれれば近道になるとは思うけれど。

《余談》
日本のデモの警官配備はまだときに異常な数で余計な厳しさも見られるけど、最近はお巡りさんも慣れてきて落ち着いてきたみたい。警官隊見てアドレナリン出て歯向かいたくなっちゃってるのは全共闘時代再燃のおじさまたちだけの模様。ちょっとした笑い話で、警察車両の運転席に『デモいこ』という 311以降沸き上がった様々なデモについてのまとめ/ガイド本が置かれていた(お巡りさん勉強中)とかいないとか。昨年の春頃は不当逮捕等が起こってかなり緊迫していましたが、あれも日本の市民がこれまでどれだけプロテストをしてこなかったかという現れだと思う(=警察が暴動とかにまっっったく慣れていなくて過剰反応してしまう)ので、今やデモもやっと日本に浸透してきたといえるのかな。お巡りさんも家ではお父さんだったりするわけだし、密かに脱原発の意思を持つ方も結構いるようです。

2012/03/11

今日の日に

被災地の方たちの携帯電話のフォトアルバムほど生々しく、愛おしく、強烈で切ない記録はないだろうと想像するのです。見たことはないけれど、どんな報道カメラが撮ったものよりも、きっと。3/11 の前からスクロールして、その日をまたぐと、いきなり別世界のフィクションかと見まがう焼け野原のような風景であったり、前日まで頻繁に写っていたひとがいきなりまったく現れなくなったり・・・。

今朝起きてそんなことを思いながら、自分の iphone のフォトアルバムを流し見ていると、去年の 3月で手が止まりました。ひな祭りの日に作った手鞠寿司の写真の次は、まったくからっぽになったスーパーの即席ラーメンの陳列棚。その次は KLM(オランダ航空)の旅客機の水色の機体の写真 − 避難をする日の成田空港。あの一週間の再現ドラマが脳内再生される・・・寝室で子どもに布団を頭から被せながら、ブンブン左右に揺れるとなりのアパートの屋根の貯水タンクを見ていたこと。家の中で一番支柱が太そうな壁の脇に子どもを抱いて数時間座りっぱなしで、繰り返し鳴る地震速報の音を聞いていたこと。それから朝から晩までテレビをつけっぱなしにして、原発事故の状況に一喜一憂しながら輪番停電の茶番に振り回され、気休めでもいいからヨウ素をとトロロ昆布を買い込み、夜は余震を恐れて外着を着て寝ること数日。避難先に飛ぶ機内では『原発肉薄、30トン放水』という見出しの前日のヘリからの落水を伝える新聞を見ながら、「わたしだけ逃げてきた」というような罪悪感にも似たやるせなさ(?形容しにくい)と空しさのような感情でしばらく泣いていた。このタイミングで出国して、果たして家に、日本にまた戻れるんだろうかという、今まで感じたことのない鉛のように重い不安感が拭えず、無力感を感じていた。

そして日本の外に出てから、自分を落ち着かせようとこのブログを書き始める。寝ずに必死にネットで情報をかき集めながら、自分にできることはなんだろうと・・・。

いろいろと知るにつれ、比較すればいいというものではないのだけれど「被災者の方に比べれば、自分はマシだ。何をこんなことで凹んだり文句を垂れてんだ。」という、自分に起こった物事を捉えるとき "被災者軸" が生まれた。この前インドに行ってからも "インド軸" ができたけど、それに少し似ている。でも、インドの体験が一時的な「旅」であったように、そのようなアングルを持ったとしても被災地を解りきれてはいない。先の投稿でも書いたけれど、そういう知ったようなことを言って実はよく知らないという事実に対しても(誰にも責められていないけど)苦しくなる・・・。だから、冒頭に書いた自分の体験なんぞは、書いているうちになんだか申し訳なくなってくるのだけど。

そんなことを思いながら、黒いリボンを安全ピンでとめて簡易の喪章としてカバンに付けた。

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昨日の予告通り、今日は日比谷公園の集会 "Peace on Earth"とそのあとの国会の包囲(人間の鎖)に行きました。日記風になってしまうけれど今日の出来事を:
昼過ぎに日比谷公園に着くと予想を超える人の数に驚く。ステージでは女の子が歌を歌っていた。アースガーデンがオーガナイズしているだけあってアースデイで見かけるエコ・コンシャスな店舗や NGO のブースが並び、晴天の噴水広場を囲んで、なにかの楽しい行事のようにも見えた。つくってきたお弁当を膝に広げて子どもと食べていると、共同通信の記者にインタビューされ、「政府には失望しているけど、国を責めても、民度にあった政治家しか出ないわけで、民度にあった国にしかならないわけで、わたしたちが変わらないと国も変わらない」というような生意気な意見を発言してみた(でもこれをフォローするような「政治を軽蔑する人は、人から軽蔑されるような政治しかつくれない」という寺山修司の言葉の引用をさっき Twitter で見て、やっぱそうだよな、とひとりで確信)。そして最後に「これから希望が持てると思うことはなにか?」という質問・・・少し考えてから「この場所にいる、大勢のひとたちじゃないですか」と答えた。311 を機に立ち上がり、声をあげているひとたち。それ以外にポジティブなものはなにも見つからない。去り際に「メディアもしっかりね」と目を見て言うと、若い記者さんは少したじろいだように見えた。

そのあと事件が起こる。日比谷公園から出発するデモの集合場所付近に向かい、その近くのお店のブースの工作(麻の端切れに絵を書く)ワークショップをうちの子(4歳)がやりたいというので、席に座らせ、ほんの少しだけ隣の店を見てきて戻ったら・・・いない。
うちの子がいない!!さーーーっと血の気が引く。
その日の日比谷公園は数千人(主催者発表は参加者約1万人)。園内びっしりの人だ。ブースの女性も詰め寄るも、どこかに走って行っちゃった、と。人生で一番のパニック。20分ほどだったか(どれくらい経ったか記憶にない)大声で子どもの名前を叫び続けながら、まったく恥も外聞もなく、公園中を走り回る。あまりの取り乱しぶりに、イベントの事務局の方が(わたしの大声を聞いて)「迷子としてこちらでも動員して探しますので」と子どもの特徴と電話番号を控えてくれ、見ず知らずのおばさんや同年代の母親層の女性も「わたしもいっしょに探します」と何人か話しかけてくれた(日本も捨てたものではない)。デモで待ち合わせていた友人にも涙声で電話をして捜索に協力してもらう。

子どもが惹かれていきそうな遊び系ブースを周り、遊具のあるエリアを確認して息を切らして噴水エリアに戻った瞬間 2:46 になり「黙祷」のアナウンス。そうだよ、今日はこのために来たのではないか。なんで今わたしは別のことを必死に祈りながら走っているんだろう。さすがにこのサイレンスの中で子どもの名前を叫べず、目をつむりながらひたすら走る。一カ所、お弁当を食べたあとに立ち寄った顔見知りのいる NGO のブースがあったのを思い出し、人ごみをくぐりぬける時間を惜しんで、そのブースの裏にまわり込んでテントをまくりあげると、うちの子のコートのフードがちらっと見えた。・・・脱力。

名前を叫んで、泣きながら叱る(泣いてるのはわたしだけ)その剣幕に子どもが泣き始める。そこは、はぐれた場所から子どもの足ではかなり距離があったので、まさかそこまでひとりで行っていないだろうと思っていた。その帰巣本能と強さには関心するけども!そこでうちの子と遊んでくれていた知人によると、なにも動揺した様子がないのでてっきりわたしがここに居るようにと指示をしたのだと思ったと。それで、黙祷の時間にはイスに腰掛けて黙祷もしていたのだそうだ。こっちが血相抱えて走り回っているときに!!そりゃ黙祷したのは褒めたいけども!

日比谷公園中がうちの子の名前を知ることになったとさ。

なぜこの迷子事件を細々と書いたかというと(こんなことを気軽に言うのは不謹慎だと思うけれど)311 という日もあいまって、探しまわっている間中、なんだか子どもの喪失疑似体験みたいな感じがしたのだ。つい昨日、子どもの喪失について書いたばかりだったし。ただ、どうしようどうしよう、というのに加えて、今日という日にこれを経験していることがすごく異様で気持ちが悪かった。頭の中がいろいろなことでぐちゃぐちゃになって、精神的にものすごい消耗だった。今日は朝から元々そんなに明るい気分じゃなかったのに、それに加えてこれ、ですよ。今思い出しても胃が痛くなる。

その激動の再会のあと(デモに出る前からげっそり憔悴・・・)日比谷から銀座を貫く長距離デモ(脱原発東京大行進)を歩ききり、そのあと夕暮れの国会議事堂包囲まで行きました。我が子よ、よくやった。すんません、迷子事件の衝撃のせいでメイン行事がそんな2行の報告に・・・。

国会の人間の鎖もすごい人で、これも1万人超の参加があったと。国会前(といっても向いの歩道)は二重三重の包囲になっていました。オーガナイズされた方々、ご苦労さまでした。人々がキャンドルを掲げてつながる瞬間に、これまた「おしっこ行きたい」・・・小雨がぱらつく中、国会議事堂前駅のトイレ目指して、車道をお巡りさんと一緒に疾走。最後の首相官邸への申し入れまでは行けなかったけど、そんなこんなありながらもヒューマンチェーンまでできて本当によかった。もっとこういったダイレクトアクションに参加してくれる人たちが増えればいいのだけど。国会前のあの人々は、人数といい熱気といい希望が持てる気がしました。お昼のインタビューへの答えは間違ってなかったかな。

帰り道、ぐったりしながら本屋に立ち寄りました。どうしても今日の日に買って読み始めたい本があったから。津波被災地と救援について、そしてアクション(人々の起こす行動・活動)についてヒントがもらえそうな本です。早く読んでここに報告したいと思っています。

次は、その本とは別に、これまでのデモについて、あれこれまとめます。

【 追記 3/12 】
Human Chain - 人間の鎖 -(写真多数)/ 脱原発スモールアクション

各国と全国各地で 11日に行われた原発に反対する集会は、東京で合計 45000人、福島で 16000人、京都や大阪でも各 6-8000人、福岡で計6000人、札幌や広島、高崎、神戸などで各 2000人など(いずれも主催者発表)日本全国で合わせて 10万人を超えるアクションがあったとのことです。

2012/03/10

そして1年

明日で 311 から 1年。

あれから、みなさんの 364日はどのような日々だったでしょうか。住むところや、それぞれの環境や興味によっては、他の 1年となんら変わらない年月だったという方もいるかもしれません。そして明日。ホワイトデー前のただの週末としてショッピングを楽しむ方もいるだろうし、家族の命日を向かえる方も多くおられます。

書き留めておきたいことが多すぎて、何からスタートしていいのかわからないけれど、とりあえず、明日どのように過ごすかについてのことと、それにまつわる話から始めます。

個人的に脱原発に取り組んでいる NGO から仕事を受けることが多く、自分自身も活動に10年ほど関わっているため、311以降、その環境の中でできる範囲の活動をしてきました。夫も報道関連の仕事をしているので、昨年から我が家では「原発事故特需」的な現象が起きて、皮肉にも仕事が忙しくなりました。それが脱原発に多少は寄与するものなのでまだいいといえばいいのですが・・・。なので一年目が近づくに連れて、ここ数週間はとてもバタバタしていて、夫も被災地に頻繁に行きました。彼からの生々しい報告を聞くうちに、一年も経ってから、津波の被災者の方たちのことを知ろうとしてこなかった自分に気づきました。原発と放射能の問題、一束に被災地と言っても福島の問題は、ほぼ毎日向きあわない日はなかったけれど、津波被災地のことは、恥ずかしながらここ数日で詳しく現状を知ったと言っていいほどです。「被災地から遠く離れるほど、人々の関心は津波から放射能になる」とどこかの雑誌にも書いてあったし、「東京と被災地の隔たりを見守るということ」についてのブログ記事(おすすめします)も先日読み、考え込んでいました。まだ知りきれていないことの方が多いだろうし、被災地の方々の心情については、本当にわかることはできないと思います。

特に人の死に関する話は本当に壮絶です。夫が直に撮影でお会いした方は、津波の被害が酷かった町のお母さんで、小学生のお子さんを亡くされたのだけれど、遺体が長いこと見つからず、自ら重機を運転する資格を取って瓦礫を掘り起こして捜索を続けた末、やっと川辺でお子さんの遺体を発見したそうです。川辺で体の一部のない遺体を見つけたときの話の中で「娘はあんな冷たいところにいて、さぞ寒かっただろうと思う」とつぶやかれ、うちの夫はカメラのファインダーの後ろでぼろぼろと泣いてしまったと。そして別の町では、幼稚園バスが津波で流され、園児たちの遺体が見つからずに、お母さんのグループが遺品の捜索をいまだにしているという話。昨日ラジオで聞いたのは、生まれてすぐの母子が津波で病院内で亡くなり、遺体で見つかったときにはお母さんが赤ちゃんを包み込んで守るようにして横たわっていたと。その父親は、数ヶ月後に出生届を出しに役所に行かれたのだそうです。出生届けを出さなければ埋葬許可が下りないために、亡くなった赤ちゃんの出生届を。耳を塞ぎたくなるような逸話だと思います。様々な信じがたい喪失が幾千と起こり(ここに上げたのもごく一部ですが)わたしが知ったのはその欠片にも過ぎません。

中でも子どもの話がやはり頭から離れません。夫とも話したのだけれど、自分に子どもができてからは、やはり子どもが犠牲になった話を聞くと、自らの子どもに置き換えてしまうために凄まじく切ない(切ないという言葉が弱いけど、一番強い言葉が見つかりません)。そしてまた、無情にも自分の子どもでなくてよかったと次の瞬間思ってしまい、つらくなります。誰の死も親しい人にはつらいけれど、子どもの死ほど悲痛なものはないのは、子どもには未来があるから。

未来。

私事を挟ませてもらうと、わたしは幼くして母親を亡くしているのですが、思い出すのは、そのときの祖母の憔悴ぶりです。子どもである自分もダメージはあったと思うけれど(はっきりいってそのときの感情をあまり覚えていない)今思うと、親を亡くすよりも我が子を亡くした方がその打ちのめされ様が違うんだなと。単純に比べることではないというのはわかっていますが、やはりそれは「これから」がどれだけあるかの話なのだと思います。親を亡くした子は、前途多難であろうが未来があるけれど、子どもを亡くした親にはロスしかない。未来を奪われたからです。子どもの未来と、自分自身の未来の一部を。

ここでまた、原発の話になって申し訳ないのだけど、わたしは、亡くなった子どもたちと親御さんたちに心を寄せながらも、これからを生きる、いま生きている子どもたちの未来の社会のために、できることをしたいと強く思います。そして、こんなときだけ「被災者」の方に立つように聞こえるかもしれないけれど、わたしは「原発さえなければ」と書いて自殺された農家の方の話が忘れられないし、原発事故がなければ東北全体の復興はもっと迅速に進み、津波直後の救助にも注力できたはずで、それで救えた命もあっただろうと思うから。自然災害に次ぐ人災は、再発を防ごうと思えば防げるのに。・・・なので、明日は喪章をつけて、日比谷公園での集い、黙祷ののちに日比谷公園から出るデモと、そのあとの国会の包囲(人間の鎖)に行きます。世界各国でも福島追悼・脱原発のアクションが行われる模様です。フランスではかなり大規模なヒューマンチェーン(人間の鎖)が行われるそうようですね。明日ご予定のない方、国会包囲、いっしょにいかがですか。

そのほか、全国で様々な催しが行われます。脱原発に関するアクション、追悼の集い、被災地支援のチャリティーイベント etc. 。原発関連のアクションは 3/11 には不謹慎だというような意見が出ていると Twitter などで目にしましたが、わたしはそうは思いません。亡くなった方たちの追悼と、脱原発は対立する概念ではないと思うから。Twitter の人気キャラ、もんじゅくんの言葉を借りると、『追悼は、未来を生きていくために、たしかにあの日までともに生きていたひとたちを想ってしのぶこと。脱原発は、未来のために、これから生まれてくるひとのために、よりよい世界を用意するよ、と誓うこと。』
・・・双方ともよりよい未来に向けて歩むため。

最後に「追悼・対・政治的なアクション」に関連して、とあるブログで見た、責任についての話をして終わりにしたいと思います。中盤で、広島原爆の追悼碑に刻まれた「安らかに眠ってください、過ちは繰り返しませんから」の文言についてのくだりがとても興味深かったので引用します。
《 脱原発の学習会で、「(脱原発を決めた)ドイツと日本の違いは何でしょうか?」との質問が出た。おそらく、それは「責任の取り方が違ったからだ」と思ったからそう答えた。ナチスの犯罪を謝罪し、犠牲になったユダヤの人々にちゃんと補償をしたのがドイツの戦後。一方、日本は「一億総懺悔」で、「過ちは繰り返しませんから」と石碑に刻む。何という曖昧さ、そして主語のない文章!今回の原発事故もそうだ。「がんばろう福島」「負けないっぺ福島」。そんな標語で生活は補償されるのか?流された家は帰ってくるのか?ローンは、仕事は?町に掛ける看板は「東電よ、きちんと補償せよ」「政府は責任を持って故郷を復興させよ」であるべきではないか。エジプトやリビアで、独裁者を打倒する若者たちの運動を目の当たりにしてきた。彼らは独裁者に偏る富、理不尽な格差、政治的自由などを求めて、街頭に繰り出し、デモをして、とうとうその独裁者を打倒してしまった。つまり中東の若者たちは敵を見誤らなかった。貧困層と中間層が団結し、「生活を苦しめている本当の敵」に向かっていった。》

それぞれの静かでピュアな「追悼」や本当の「絆」が、誰かの策略のもとに乱用され、脱原発や被災地復興の中でターゲットを見誤らせる結果となることは絶対に避けたい。わたしはわたしの追悼をしながら、子どもの未来のために、ぶれずに(敵を見誤らず)止むなく行動していきます。

長文、最後まで読んでくださった方がいらしたのなら、どうもありがとうございます。
もし被災された方が読まれ、気分を害されるような記述がありましたら、気が回らなかったことをここにお詫びします(気づかず、そういったことが多々あるのだと思うので)。

イベント情報:
311 脱原発 - 祈りと一歩 - (全国アクションマップ)

関連リンク:
・「被ばくすることが仕事」という原発の現場をリアルに知ることができるインタビュー。反原発運動と労働者、福島と東京の乖離、沖縄基地問題との通底などにも触れています。「原発収束作業の現場から:ある労働問題活動家の報告」(長いけど必読です)
「1000年後の未来に伝えたい 311の記録」(これも以上に長いけど・・・メモとして)
「ママは原発いりません」思いをきいてください(福島の現状)