数日前に、目の不自由な方たちが放射性物質から身をまもるために「声で知らせる線量計」が開発されたというニュースを目にしました。そんなものもでてきたか、と思って読み進めるうちに、なんともいえない不快感が湧いてきました。線量計の価格は高額なものだし(何人の目の不自由な方たちが実際買えるだろう)、わたしが気がつかなかっただけかもしれないけれど、わたしが目にした「障害を持つ方に対応した放射能防護」に関するニュースは、放射能が撒き散らかされてから9ヶ月目にしてこれが初めてでした。どちらかというと普段わたしは障害を持つ方たちとは遠い存在です。友人に社会福祉士が数人いるくらいで、親族や知人にもいないので実際に触れあう機会はめったにありません。実状をよくしらない身で、偽善的な発言かもしれないけれど、こういう今みたいな有事に、やっぱり障害を持つ方のケアというのは後回しにされるんだな、と。安心な食べ物を選ぶ、居住地を選ぶ、それが容易にできない方たちがより被曝しやすくなる・・・こういうところに格差が出てくるとは前から思ってはいたけれど。
質疑応答のとき、環境問題(原発の問題)は本当はやりたくないという気持ちがある、と言われた。なぜかというと環境問題には「障害は悪いもの」という感覚があり、障害をもっていてもいいじゃないかという考えから離れていくから、だと。「病気や障害が悪という意識をもつことは危険なこと。遺伝的な影響を言うと、病気や障害を差別することになる」と。確かに、チェルノブイリでも水俣でもその奇形の被害者などにスポットがあてられました。現在でも「放射能の影響で障害児が生まれる(た)」などというアラートが無神経に流れ、妊婦さんが赤ちゃんの中絶を考えている/若い女の子たちはどうせ健康な赤ちゃんが産めないと諦めているなどという文章をウェブで目にすると、とてもやるせなくなります。そんなリスクのある環境に実際直面している今に空しくなるのと、まさにこの山田先生が触れられたような「障害児だとだめなのか」ということに答えが出ずに(だって自分自身が当事者だったらと思うと、やっぱり「子どもは健康であって欲しい」と思ってしまうし「障害があってもそれは個性」と言い切れるだろうかと)最後まで考えきれずに諦めてしまうのです。
山田先生は言います「病気や障害をもった人は福島を動けません。こういう状況では世の中の差別があらわにみえてくるものです」。そう、これから障害を持った子どもたちが出てくるという可能性とは別に、この今にも障害を持った方たちが福島にいる。被災地の仮設住宅はまったくバリアフリーが考慮されていない、平時の社会がいかに弱者を軽んじていたものだったかが今わかる、という声も Twitter かどこかで見かけました。なかなか自分で答えが出せないことが多い問題だけれど、ひとつだけわかっているのは、健康被害や差別を生む不安定な環境をつくりだすものは要らない。放射能は要らない。原発は要らないってこと。大きなものに潰されそうになって、自分や自分の家族を守ることで精一杯だとしても(理想だけれど)周りにどんな人が声をあげているか、見わたす余裕は常に持ちたいと思うわけです。
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