(c)福島人権宣言を考える会
「原発は倫理的なエネルギーではない」
少し前のことですが、ドイツの「安全なエネルギー供給に関する倫理委員会」(倫理委員会)が、脱原発を結論づけるために議論し、出した公式な発言です。委員には原子力の専門家はひとりも入っておらず、牧師や哲学者、社会学者、金融関係者、労組の代表や消費者団体、環境団体のメンバーなどから構成され、公開討論会などを通して「国民的議論」として、政府の決定した脱原発について、意見をまとめました。
ここで出された結果を尊重したメルケル首相も褒めたいですが、こうしたバランスの取れたオープンな意見聴取の形をとったドイツ、社会が成熟しているし、国民主権なんだなと思います。原発のことを(事故が起きる前も後も)偏った専門家に任せている日本と大違いですね。
当初、委員の考えはそれぞれの立場からまちまちであったのが、丁寧な議論を積み重ねるうちに深められ、やがて生きる根源的なもの、倫理的な考えに至ったそうです。そこには電力源シナリオやコストや GDP の話などはまったく出てきません。 ただ:
1. 原発はひとたび事故を起こせば、必ず甚大なリスクを引き起こす
2. 事故の影響は国境をまたぎ、地球規模のリスクとなる
3. 事故はその時だけでなく次世代へ計り知れないリスクと禍根を残す
という事実から、「こんなもの、いらないよね」となっただけ。
ご興味のある方は ☞「国民的議論をいかに進めていくか 〜ドイツ倫理委員会の実状と脱原発へのプロセス(ミランダ・シュラーズ)」。
原発はエネルギー問題ではなく、倫理の問題(電力どうこうじゃなくて、どう転んでもやってはいけないこと)だということは、京大の小出裕章先生もずっと前から仰っていました。著書『原発のない世界へ』の中でも;
「私が原発を廃絶させたいと願うのは、原子力が危険だからという前に、原子力が始め(ウラン採掘)から終わり(廃棄物処理)まで、いわれのない犠牲をしわ寄せするからです。私は今後とも原子力に抵抗します。一人一人の読者の周りにもまた、いわれのない犠牲を強いる差別が満ちているはずです。その差別に抵抗し、差別のない世界ができたとき、原子力もまた廃絶されているはずです。」(2007年)
「原発がなくなれば、それで望むような社会ができるわけではない。原発を廃絶させることは、望ましい社会を築いていくための1つの課題であり、基本的な目標を忘れずに、1つ1つの選択をしたい。」(2000年)
と述べられています。
小出先生は「たかが電気(をつくるだけのもの)に、犠牲にするものが多すぎる」という主旨のこともどこかで言われていました。だから、わたし(小出先生)は「脱」原発なのではなく、「反」原発なのだと。
原子力発電の工程の中や、被ばく労働者、原発城下町の地方と都市部という問題だけなく、事故が実際に起きてしまった今、さらなる分断や差別を生みました。被ばくの問題、放射能の話題はタブーの福島、放射能の危険を訴える人と耳を塞ぐ人(それも地域の中と外で)、避難する人とそれを中傷する人、被災地の逆境の中で生きる人と被害を何一つ被らなかった人、被災した方々の中にも家がある人とない人、家族がある人ない人・・・それらに対してすべての問題に無関心な層。原発の反対運動の中や外でも。
「原発がなくなれば、それで望むような社会ができるわけではない。原発を廃絶させることは、望ましい社会を築いていくための1つの課題であり、基本的な目標を忘れずに、1つ1つの選択をしたい。」(2000年)
と述べられています。
小出先生は「たかが電気(をつくるだけのもの)に、犠牲にするものが多すぎる」という主旨のこともどこかで言われていました。だから、わたし(小出先生)は「脱」原発なのではなく、「反」原発なのだと。
原子力発電の工程の中や、被ばく労働者、原発城下町の地方と都市部という問題だけなく、事故が実際に起きてしまった今、さらなる分断や差別を生みました。被ばくの問題、放射能の話題はタブーの福島、放射能の危険を訴える人と耳を塞ぐ人(それも地域の中と外で)、避難する人とそれを中傷する人、被災地の逆境の中で生きる人と被害を何一つ被らなかった人、被災した方々の中にも家がある人とない人、家族がある人ない人・・・それらに対してすべての問題に無関心な層。原発の反対運動の中や外でも。
汚染された被災地とされていない被災地という違いは、特にずっとひっかかっています。放射能汚染で警戒避難区域となった上に津波や地震の被害も大きかった福島の一部では、家族の遺体を捜しに土地に戻ることすらできなかった。震災直後、制御不能になった原発への対処に国の大半の力が削がれることがなかったら、地震や津波で凄まじいことになっていた被災地の救援がもっと迅速にできたのではないか、といつも思うのです。救われた命だってあったはずです。復興だって、こんなに複雑ではなかったはず。(余談ですが、除染をするかしないかの問題はそれはそれで存在するのですが、除染で出た汚染土に行き場がなく、敷地内に置いたままになっている住宅や事業所が福島県内には 1500カ所あり、今その量は家庭用のゴミ袋に換算して 26万袋分になっているとか(NHK調べ)。)
これは人権の問題だとも思いますが、人間だけではありません。浪江町(福島第一から20km圏内警戒避難区域)の牧場で、300頭の被ばく牛を育てている「希望の牧場」の吉沢さんの話などは、原発事故で一番被害を受けた第一次産業のダメージの最前線だと思います。(上記のリンクには家畜の死体などショッキングな写真が含まれます。でも、それがリアリティ。わたしは知ってよかったと思いました。)「棄民政策」、福島は国からも誰からも捨てられた、という言い方をする人もいますが、うずたかく積まれた牛の骨の写真を見ると、その言葉がズシンと入ってきます。いまだ危険な放射線量が続く20km圏内の、家々はあるのに人の暮らしがこつ然となくなった街、戻ることのできなくなった故郷、野放しになって多く亡くなったというペットたち、散り散りバラバラになったコミュニティや家族、自殺者、被ばくした子どもたち・・・震災の上に重なって起こった原発事故は、直後の被害や喪失だけでなく、半年後も、一年後も、今になっても進行する苦しみを生みました。
蒸気でタービンを回すだけのたったひとつの工場の事故で、もたらされるのがこの犠牲。しかも一部の地域と一部の労働者に危険なお世話を任せて、安全圏に住む人々が成果物を享受していた。経済発展の旗の元にもっともっと電気を消費して、原発の数の方に消費を合わせようとすらしていた。これらのことを考えると、自分は倫理を人に諭せるほど清らかな人間ではないですが、原発だけは倫理的に心底「正しくない」と思います。子どもが幼稚園の先生に教わるようなレベルの「やってはいけないこと」が社会の規模になると見失いにくくなるようです。
最後に、抑えておかなければならないのは、倫理感から離れて現実的な議論(経済への影響や電力需給)になっても脱原発には具体的な解決策が存在するということ。もう、これで、やめなくてどうすんだよホントに・・・。国民がやめよう!と強く訴えない限り、既得権益にからまっているおっさんたちは、この期に及んでも止める気はさらさらないわけで。ここで一般市民が蜂起しなければ、日本は本当に終わりだと思います。
蒸気でタービンを回すだけのたったひとつの工場の事故で、もたらされるのがこの犠牲。しかも一部の地域と一部の労働者に危険なお世話を任せて、安全圏に住む人々が成果物を享受していた。経済発展の旗の元にもっともっと電気を消費して、原発の数の方に消費を合わせようとすらしていた。これらのことを考えると、自分は倫理を人に諭せるほど清らかな人間ではないですが、原発だけは倫理的に心底「正しくない」と思います。子どもが幼稚園の先生に教わるようなレベルの「やってはいけないこと」が社会の規模になると見失いにくくなるようです。
最後に、抑えておかなければならないのは、倫理感から離れて現実的な議論(経済への影響や電力需給)になっても脱原発には具体的な解決策が存在するということ。もう、これで、やめなくてどうすんだよホントに・・・。国民がやめよう!と強く訴えない限り、既得権益にからまっているおっさんたちは、この期に及んでも止める気はさらさらないわけで。ここで一般市民が蜂起しなければ、日本は本当に終わりだと思います。
